水谷修 『こどもたちへ』2006/11/02

水谷修さんのことは、テレビで知りました。どこか民放だったと思いますが、彼のドキュメンタリーをやっていたのです。
それまで全く彼のことを知らなかったので、こんな先生もいるんだとびっくりしたのです。

彼は神奈川県の定時制の教員をしながら、夜は町に出て、道ばたに座っている若者たちに話しかけます。
家に帰るとメールが彼を待っています。
寂しい、死にたい、リスカ(リストカット)をしっちゃったよぉ。たくさんのこどもたちからの声が彼を待っています。
電話もきます。そのひとつひとつに彼は丁寧に答えていきます。

講演での彼は、真剣な表情で話し続けます。
今の若者は一見何も考えたりしていないようで、何を言っても無駄のような気がしますが、大人が真剣に訴えかければ、それが届くのでしょう。

この『こどもたちへ』という本は、今まで彼が話していたことをそのまま書いたものです。
彼が、最後にいいたいことを書いたのでしょう。(彼は癌で、治療をしていないと聞きました)
彼の言葉は優しさに溢れていますが、その優しさは厳しさを伴った優しさです。
本当の優しさには厳しさも含まれるのです。
うわべだけの優しさを、ともすれば私たちは求めてしまいがちです。
でも、それは「優しさ」ではないのです。

彼は言います。哀しいとき、つらいときは、声に出して言うなと。
言葉に出すと、言葉が一人歩きをしてしまい、「ことばは語ったときに、その人の生き方をきめてしまう」。
「「哀しい」と言うより、哀しい顔を」、「「がんばります」と言うより、自分のできることをゆっくりすればいい」。

寂しい。
それではいけませんか。
人はひとりで生まれて、ひとりで死んでいくんです。
寂しさは人間の宿命だと私は考えます。
受け入れるしかないんです。

誰もあなたを一生は支えきれません。
一歩を踏み出した後は、ひとりで歩いてください。
寂しさは、自分自身で乗り越えるしかないんです。

明日は、自分では作れません。
人のために優しさをくばって、人のために生きて
そうすれば、明日は自然にやってきます。

彼の原点がこれらの言葉だと思います。
彼の本を読んでいて思い出した女の子がいます。
彼女はリストカットをしていました。
彼女が見せてくれた傷のひとつひとつが、彼女の悲しみを表しているように思いました。
私は生きにくいという訴えでした。
私にできたことは、ただ側にいて話を聞いてあげることだけでした。
今でもたまにメールが来ます。ああ、生きていてくれたんだと思います。

誰でも水谷さんのようなことはできません。
でも、私たち大人のひとりひとりが、これから出会うこどもたちにできることがあるのではないかと思っています。

ピーター・トレメイン 『蜘蛛の巣』2006/11/04

七世紀のアイルランドが舞台のミステリーです。
カドフェル・シリーズが終わりを告げ、がっかりしていたのですが、今度は新しく(といってもイギリスではもう17巻まで出ているそうです)、アイルランドの尼僧のミステリーが登場です。
なんとアイルランド系移民の多いアメリカでも評判で、ドイツではラジオ・ドラマとして放送されていたりするそうです。(翻訳者の受け売りです)
作者は、有名なケルト学の学者だそうで、7世紀のアイルランドが、まるで見てきたかのように、描かれています。

主人公のフィデルマは、モアン王国の王の妹にして修道女でありながら、アイルランドの法律、ブレホン法を学び、法廷に正式に立つ資格を持った弁護士でもあり、裁判官でもある女性です。
この資格を持った人をドーリィと言います。
フィデルマは昔、愛した男に捨てられるという経験をし、それがきっかけで尼僧になったのかどうかわかりませんが、人を愛することに恐れを感じています。
そういう一面を持ってはいますが、頭脳明晰、容姿端麗。彼女の活躍がとっても楽しみです。

今回の事件の発端は、アラグリンの谷を支配する、氏族の族長エベルが殺されことから始まります。
フィデルマは王である兄から頼まれ、アラグリンまで真相を探りに行くことになります。
アラグリンに行く途中、宿に泊まったところ、賊に襲われ、アラグリンに行くと、そこにはエベルの若い娘クローンがいて、フィデルマに自分が父の事件を扱うから、あなたは必要ないとまで言われるのです。
しかし、調べていくと、死んだのはエベルだけではなく、その姉まで殺されていたのです。
犯人として、盲目で話も聞くこともできないモーエンがあげられていました。
次々と起こる殺人。一体誰が何のために?

このミステリーで、アイルランドでは女性も男性と同じように公職につくことができたこと、アイルランド独自のキリスト教、ケルト教会が存在していて、ローマ教会と相違があったことなど、色々と中世の知られざるアイルランド生活をかいま見ることができました。
アイルランドに興味のある人には、必読の本です。

福島 章 『子どもを殺す子どもたち』2006/11/06

犯罪心理学者として有名な福島章が書いた本です。
第一章では、1959年、アメリカの精神科医、ローレッタ・ベンダーが行った、殺人を犯した子ども33例の調査・研究の結果を紹介しています。
33例の内訳は男子31人、女子2人と圧倒的に男子が多く、その年齢によって殺人行為の傾向が違ったそうです。
年少者の殺人行為は、動機や殺意が明確ではなく、事件というより事故という意味あいが多いのですが、十代の殺人は、計画性や殺意、動機などが明確で大人の殺人に近くなり、刺殺や撲殺が多くなります。
絞殺は児童・思春期ではまれだそうです。
人を殺した子ども達に、精神医学的所見が高率に見られ、これはアメリカも日本も同じです。
知能はアメリカでは優秀にやや偏っているそうですが、日本では平均値より低い領域に偏っています。
「脳障害」も殺人少年の2割に見られるとベンダー博士は書いていますが、最近の研究では5割程度に微細な脳の異常所見が認められるそうです。

次章からは、日本で起こった3つの子どもの殺人事件を取り上げています。
酒鬼薔薇事件、長崎、佐世保の事件。そのどれもが忘れられない事件でした。
酒鬼薔薇少年は、「弟を殴る」からという理由で、毎日親に殴られていたそうです。
<被虐待者にして虐待者>ということです。
そして、小学校の頃から動物虐待や弱いものいじめ、万引きを繰り返し、中学に入る頃には万引きがエスカレート、医者にADHDと診断されています。
福島の見立てでは、親の厳しい暴力に対処するために、小学生になるかならないかの年齢で解離心性と身体表現性障害の症状を示していて、その後思春期の性衝動と攻撃衝動の亢進のため、多彩な性倒錯と後遺障害の症状と行動が出現したのではないかとのことです。

長崎の少年の場合は、男子にいたずらをしようと思って、立体駐車場まで連れて行き、騒がれたので突き落としたというものでした。
この子はアスペルガー障害(対人的相互反応の質的障害)があったものと見られます。
現代の性の抑圧と性知識の欠乏により、彼個人の特異気質と彼の男子性器に対する強迫的感心が合わさり、このような事件が起こったそうです。

佐世保の女子の場合は、初めはHPの書き込みを巡るトラブルだったように新聞には書かれていました。
しかし、福島によると、殺人は<思春期の同性愛的感情>から誘発されたのではないかとのこと。
殺されたR子とは一見仲が良かったのだけれど、それはその女子の一方的な思いで、R子にとっては彼女はただの友だちでしかなかったのです。
その他に問題になったのが、思春期に起きる攻撃性の発散場所が彼女になかったということです。
ミニバスケットをしていて昇華されていた攻撃性が、親に受験のために止めさせられたため、同級生の男子などに向けられていたりしたそうです。
ミニバスケットを続けていれば、この事件は起こらなかったかもしれないとのことです。

福島によると、若い頃に凶悪な殺人を犯した人間がまた殺人を犯す可能性は、少なくとも殺人を犯していない普通の人より100倍も高く、性的倒錯の治療は困難だそうです。
アメリカの州によって、性犯罪者がどこに住んでいるのかという情報を誰でも見られるようにしていると言います。
性犯罪者の人権の問題がありますが、現状としては仕方がないのかもしれません。

子どもを殺した子どもは特異な子であったと思いたいと、誰もが思うのではないでしょうか。
しかし、子どもたちの置かれている状況を見る限り、あまり楽観的には考えられません。
出生率の低下も仕方ないのかなと思います。

村山由佳 『天使の卵』2006/11/07

映画になって、評判だというので、どういう話かと思って読んでみましたが、あまりにも凡庸な恋愛小説でした。

主人公は一本槍歩太という19歳の男の子。
何をやりたいのかを決められず、美大2校と普通の大学1校を受け、見事落ちてしまい、仕方なく浪人しています。
父親は精神病院に入院していて、母親が居酒屋をして生計をたてています。
そういうわけもあって、進路を迷っているのです。
ガールフレンドはいるのですが、彼女とはこの頃疎遠になっています。

そんなある日、満員電車に乗ってきた女性に一目惚れをしてしまいます。
その女性は(できすぎた話なのですが)なんとガールフレンドの夏姫の姉で、父親の新しい主治医の春姫だったのです。
週末、父親のお見舞いに行くたびに、春姫と話をして、好きだという気持ちが止められなくなっていき、夏姫に別れをつげてしまいます。

春姫には悲しい過去がありました。
画家の夫が自殺をしていて、医者になったのは夫のような人を二度とつくらないようにというためだったのです。
最初はかたくなに歩太を拒むのでしたが、春姫に横恋慕する医者との出来事や歩太の父の死があり、いつしか二人は結ばれていくのでした。
ここまで読むと、良くある話と思うでしょう。
そうなのです。この後も、想像通りの展開です。
妹の春姫に二人の関係がバレ、バレたその日に春姫は流産をしてしまうのですが、医者のミスで春姫は死んでしまうのです。

『百万回泣くこと』の時も、思いましたが、愛した人が死ぬというのは、恋愛小説の定石なのでしょうか?
もっと違う恋愛を描けないのでしょうか。
そういえば、『世界の中心で愛を叫ぶ』も同じようなものでしたね。
たぶんこういう小説は十代にしか味わえないのでしょう。
ちょっぴり昔のことを思い出し、こうだったなと思うところもありましたが、ありきたりだなと、おばさんは思うのでした。

この本は今日出会った若者にあげてしまいましたが、さて彼はどういう感想をもったことやら。

藤原新也 『なにも願わない手を合わせる』2006/11/08

「人間は犬に食われるほど自由だ」というパルコのキャッチコピーで知られるようになった藤原新也の本です。
『メメント・モリ』では、インドの風景が鮮烈でした。

彼は肉親が他界するたびに四国巡礼をするといいます。
今回はお兄さんが亡くなったので、三度目の巡礼を始めました。
彼のお兄さんは美食家で、手帳に飲食店の情報を書き付けていたといいます。
その彼が癌になり、壮絶な最期を迎えたのです。
その最期に不合理さを感じ、受け入れ難く思いながら、旅に出たのです。

彼の四国巡りは決められた八十八カ所を回るというのではなく、「四国という風土そのもの」を巡り、その「道すがら気が向けば寺を訪れるという」旅です。
旅の途中に、道ばたの地蔵に兄を見、蝶に父を見、死んだ母の最期を思い出します。
死の影と共に歩む、そういう旅です。>肉親の死を思いながらも、藤原は現代の日本の現状にまで、思いを馳せます。
田舎の列車に乗ってきた少女。
彼女は席につくなり携帯電話を取り出し、自分の世界に浸ります。
着メロは何年か前に流行った浜崎あゆみの歌。
藤原は何故浜崎が若者に絶大なる人気があるのか、その訳を解いていきます。
彼女の歌は「迷子の歌」だといいます。
「まなざしの聖杯」を受けていない子、母親の無償の愛を受けていない子、そういう子たちは「まなざしを求めて世間をさまよう」のです。

彼の書いた「富士を見た人」という章も印象的でした。
何故か富士は昔から人々を魅了しています。
私自身も好きで、よく写真を撮っています。
その富士山の麓にある樹海は自殺の名所として有名ですが、こういう話もあるそうです。
ある女性が樹海に行って、死のうと思い歩いていました。
ふと見上げると巨大な山が目の前にありました。
その山が「自分を抱きしめてくれるなにかとてつもなく大きな人の心のように見え」、自殺するのを止めたといいます。
昔の人は富士山を神様として祀っていました。
富士の姿にこういう大きなものを見ていたのかもしれません。

祈りというものが、日常生活から消えてからだいぶ経ちます。
この本に出てきた少女のように、無心に何も願わず手を合わせることが、今必要なのかもしれません。
そういう気持ちにさせられる本でした。

ローラ・ダラム 『ウエディングプランナーは凍りつく』2006/11/09

軽いミステリーです。これはひょっとすると英語で読んでもすぐ読めそうな感じです。こんど買ってみますわ。

ウエディング・プランナーという職業は日本ではあまり一般的ではないですが、アメリカでは利用する人が多いらしいです。
日本みたいにホテルやウエディング専門の施設では結婚式や披露宴をやらないようで、教会で式を挙げて、その後好きなところで披露宴をやるようです。
ホテルあり、自宅の庭あり、邸宅あり、なんでもありという感じです。
著者は本物のウエディング・プランナーだそうです。
経験に基づいた花嫁や料理人の実態はゾッとするものです。

2作目の今回は、披露宴の料理をつくっていた料理長が、氷の彫刻に突き刺さって死んでいたというものです。
友人のホテルの従業員、ジョージアが逮捕され、アナベルと友だちたちは事件を調べ始めます。

同じアパートに住んでいる変なおばあさん、リートリスがおもしろいですよ。
服装も奇抜な上、好奇心旺盛で、アパートに来る人をいつも見張っているのです。
殺人だと聞くと、もう誰も彼女を止められない。
今後どうでてくるのか、期待できます。

ミステリーを楽しむより、軽快な会話とウエディング・プランナーの苦労を味わってください。

横森理香 『開運生活!カラダとココロのお掃除術2006/11/12

この頃書店に行くと、流行なのでしょうか、「掃除」と「開運」を題名にした本がいっぱい出版されています。
カレン・キングストンさんの本の影響でしょうか?
今回は横森里香さんの本を買ってみました。
彼女のことは全く知りませんでしたが、40代で子どもが一人いる人だそうです。
とにかく「今使っていないものは必要ないもの」を念頭に、物を捨てていけばいいと言ってます。
本や長い間着ていない服なども思い切って捨てる勇気が必要ですね。
たいていの本は二度と読まないことが多いですから。
それなら何故買うのかと言われそうですが、まず図書館に行く暇がない、図書館で読みたい本が必ずしもあるとは限らない、新書なんかはリクエストをしてだいぶ待ち、読めるようになった時には読みたくないこともある、などなどいろいろとあるのです。
2週間前に大掃除をしても、まだまだ本はあります。
捨てるために、本を結わえることが結構大変なのです。(まだ指の感覚が変なので・・・)
結わえても、それを下まで持っていくのがもうひとつの大仕事。
マンションなので、あまり出し過ぎてもと思って遠慮がちです。

横森さんの日常生活は、ビルケンシュトックの2足の健康靴しか履かない、下着はマタニティーウエアの「ブラ一体型タンクトップ」をつけ、いつでも動けるようにジャージを着用しているそうです。
もっとびっくりしたのは、9時頃には寝て、6時に起きるという生活をずっとしているということです。
まあ、自宅から5分の仕事場に通うだけだからできる、ライフスタイルなのでしょうね。
誰にでもマネはできませんわ。

面白いと思ったのは、「神聖な場所と時間を作る」と言っていることです。
一見現代女性にいいライフスタイルを提言している人だと思っていたのですが、急にスピリチュアルなことが書いてあって、面くらいました。
カレンさんの本を読んでいたりして(笑)。

「我慢しない、楽しめることだけをする」という彼女の人生観みたいなものには、同感ですが、会社勤めをしていない彼女だからこそ言える、という風にも思えます。
「合わないことをすると、人間、ものすご~く、疲れるんですよ。疲れると健康を害し、生活も悪くなりますから、疲れないのが一番なんですね。とにもかくにも「疲れていないこと」が一番の贅沢であると、ここ数年私は思うのです。」その通りです。
でもねぇ、私の仕事をしてみなさいな。
それで疲れないかどうか…(ブツブツ、笑)。
まあ、ちょっとつっこみたくなることも書かれていますが、とにかく部屋をきれいにすることで、気分もよくなり、運も良くなるということです。
それ以外のことは、彼女のように自宅から5分の仕事場があるか、専業主婦で子どもが大きくなっている人、仕事が暇な人にお勧めします。
仕事を持って毎日疲れている人は、週末にできる限り掃除をして、私生活では我慢しない生活をし、楽しみましょうね。

浅田次郎 『椿山課長の七日間』2006/11/15

映画になっている本をまた読みました。浅田次郎の本は『天国までの百マイル』を読みました。悲惨な人生なのに、母親のために頑張る主人公が良かったです。何故か嫌な感じのしない小説でした。

今回の主人公、椿山は、デパートに人生をかけ、高卒でできうる限りの出世をした人です。
新しく家も買ったし、これからという時に、日頃の無理がたたり、出先の飲み屋で倒れて死んでしまうのです。

気づくと、知らない道を歩いています。
しばらく行くと、ビルがあり、死んだ人たちはそのビルの中に入っていきます。
なんとそこで、審査があるというのです。
その審査で、立派な人生を送った人はまっすぐエスカレーターに乗れるのですが、それ以外の五戒の罪を犯した者は講習を受けなければならないのです。
椿山は邪淫に溺れた罪のため、講習を受けなければならないと言われます。
残してきた妻子のこと、父親のことが心残りだし、邪淫だと言われたことも納得のいかない椿山は再審査を受けることにします。

再審査のところにはヤクザと少年がいました。
ヤクザは自分が殺された理由と子分たちのことが心配で現世に戻りたいのです。
少年は自分の本当の親を捜し、彼らにありがとうを言いたいのです。
彼ら三人は、死後七日間だけ現世に戻れることになりますが、自分と全く正反対の人間の姿になるというのです。
デブで禿の椿山は、独身でスタイリストの美女に、ヤクザは品のいい男性に、少年はかわいい少女になります。

現世に戻った椿山は自分の家庭に、自分が知らなかったことがたくさんあったことを知ります。
そして、いつしか一見関係なさそうな3人が、戻った現世で微妙に関わりあうようになっていきます。

ありえない話ですが、いつしか夢中になって読んでいました。
前に読んだ重松清の『流星ワゴン』と似ています。
人生は知らないからこそ良かったと言えることがあるのではないでしょうか。
この主人公のように、知ってしまっても恨むわけでもなく、幸せを祈れるなんて、あまりにも善人すぎると思います。
だからこそ、安心して読めるんでしょうね。

浅田次郎 『地下鉄に乗って』2006/11/16

『椿山課長の七日間』のあとがきに、この『地下鉄に乗って』がすごくいいと書いてあったので、買ってみました。

地下鉄が開通した1927年(昭和2年)からもう八十年弱が経とうとしています。
銀座線の上野~浅草間が初の路線だったそうです。
地下鉄は人々に夢を与える存在だったようです。

主人公の小沼は、戦後なりあがっていった小沼財閥の次男ですが、暴力をふるい、家庭を顧みず、 兄が死ぬきっかけをつくった父親を許せませんでした。
そのため実家の会社には入らず、しがない安物の女性下着を作って売っている会社に勤めています。
いつも地下鉄に乗り、品物を売り歩くので、地下鉄については、ほぼすべての路線を知っています。

父親が死にそうだから、会いに行ってくれと、弟に言われてから、なんの気なしに行った同窓会の帰り道。
地下鉄が止まっているので、違う路線で行こうと思い、出口から外に出たところは1964年。兄が死んだ年でした。
それから何度も、違う時代に行くようになります。
そこには兄や、憎んでいる父親が若い姿で出てくるのです。
そして、何故か恋人のみち子も同じように過去に行くようになり、いつしか兄の死の真相と、父親の過去を知っていくのです。

戦前の貧しい時代と、戦後の厳しい時代を生き抜いて来た父親は、小沼が思うほど悪い奴ではありませんでした。
一緒に時代を遡っていくにしたがい、小沼は新しい生活をしようと思い始め、妻子を捨てて一緒にくらそうとみち子に言います。
しかし、みち子は一緒に暮らせないと言います。
最後の過去への旅で、みち子は自分の危惧の念が正しかったことを知り、ある決心をし、それを実行に移すのでした。

全く悪い人が誰もいないという話です。
どんなに悪そうに思える人にも、昔があり、その昔が愛すべきものであったり、たとえ裏切られたとしても、そこに深い事情があったり…。
浅田の本は性善説に基づいているようです。

浅田次郎 『鉄道員(ぽっぽや)』2006/11/19

図書館に行くと、浅田次郎の『鉄道員』があったので、読んでみました。
この本は短編集で、なんとも不思議な話が載っています。

『鉄道員』は、実直な乙松という鉄道員の話です。
彼は北海道の自分の退職と同時期に廃線が決まっている線の駅長をしています。
娘が重体の時も、最後の列車が通るまで娘に会いに行きませんでした。
2年前に奥さんが死んで、一人ぐらしをしています。
お正月の日、見慣れない少女が駅にいました。
乙松どこかの家の孫が遊びに来ているのだろうと思いました。
次の日、昨日の子より大きい少女がいました。
三日目には高校の制服を着た少女がいました。
お寺の娘の子どもかと思い当たり、少女を駅長室に呼び、お汁粉をごちそうします。
暗くなったから、送っていくといい置き、列車が通るのでプラットフォームに出てから戻ると、その娘は二人分の食事を作ってくれていました。
お寺の住職から電話があり、孫が帰って来ないから心配しているのだと思い、そのことを言うと、不思議そうに孫は来ていないと言われました。
では、今いる少女は一体誰なのか?
それは、乙松の死んだ娘で、自分の成長した姿を見せに来たのでした。
次の日、旗を持って、線路脇で死んでいる乙松が見つかります。

他の同僚は上手く立ち回り、新しくできた最新式の駅で働いていたりするのに、乙松は最後まで鉄道員(ぽっぽや)として、さびれた小さな駅で人生をまっとうするのです。
乙松のように、誠実に自分の仕事をまっとうする、そういう生き方をできる人はそうはいないでしょうね。
周りを見ると、どの人も欲があり、できるだけ自分に有利なように、うまく立ち回って行こうという気持ちがありありですから。
私はイチ抜~けた、と言ってのんびりやっていきますわ。
やれることを一心にやる。それしか無いですね。
乙松のように、死ぬときに誰か来てくれるのかしら?