神奈川新聞報道部 『いのちの授業 がんと闘った大瀬校長の六年間』2007/09/04

前に紹介した元サーファーの飯島直樹さんと同じようにテレビで紹介されていたのが、茅ヶ崎市立浜之郷小学校の大瀬敏昭校長です。
自分ががんであることを生徒に告白し、そのことを基に授業をしているすごい先生がいるのだと、その時に思いましたが、亡くなったのは知りませんでした。

大瀬校長は新設校の初代校長として赴任します。
彼が作ろうとした小学校は、東大の佐藤学教授の唱えた、「子どもも先生も共に学び合い、育みあう「学びの共同体」づくりを目標」にしていました。
新しい学校が開校して二年目に、大瀬さんは胃のスキルスがんになります。

本を読んでいて感じたのは、本当にこのような学校が存在したのかという驚きです。
小学校と言えば、自分が過ごした六年間しか知りませんが、もしこのような小学校があったならば通ってみたかったと思います。

「いのちの授業」はがんにかかった校長が生徒に与えた最期の授業でした。

「絵本のような読み聞かせのような『いのちの授業』は、見掛けはつまらないかもしれない。しかし、授業を通して子どもの心には”小さな物語”が沸き起こってきます。結局、『いのちの授業』では授業者が命をどうとらえているか、教師一人ひとりの死生観が問われているのです。」

「この死に至るまでの生き方を抜かして、最期の一瞬だけを取り上げて美化してしまうと、他者に自己犠牲を強いることになります。そうではなく、自己犠牲というのは愛に生きてきた結果である、と思うんです」

小学六年生が「家族とね、学校で、学校を採った」という場面があります。
この子が感じたように、大瀬さんは学校を採ったのです。
学校を採って、子どもたちにたくさんの贈り物を残したのです。

誰にでも彼のような生き方はできるものではありません。でも、こういう教師がいたというだけでも、人間はまだまだ捨てたもんじゃないと思えます。
自分がこのような生き方を選択するかと言われると、否としかいいようがありませんが。
もっと個人的な死を望みますけれど。

前に『神の慮り』という言葉を紹介しましたが、この本の中にも出てきました。
いろいろな訳があるようです。本に出てくる一節を載せておきます。
感性にピッタリくる訳はどれでしょうか。

       『応えられた祈り』

 功績を立てようと、神に力を求めたのに
 謙虚に服従するようにと弱さを与えられた。
 より大きなことをしようと、健康を祈り求めたのに
 より良いことをするようにと、病気を与えられた。
 祈り求めたものは、何一つ与えられなかったのに
 実は私が望んでいたすべてのものが与えられた。
 このような私にもかかわらず、私の言葉にならない祈りは応えられ、
 すべての人にまさって、私は最も豊かな祝福を与えられたのだ。

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