五木寛之 『百寺巡礼 第二巻 北陸』2009/01/29

北陸には一回も行ったことがありません。
金沢には行きたいとは思っているのですが、兼六園以外に見るべき所がないように思っていたのです。
でも、この本を読んでから、ここに出てくる全部のお寺に行きたくなりました。
学校では日本史をまともに勉強しなかったのですが、天皇とか武将のことがおもしろいですね。
自分なりに勉強しようかと思い始めました。

第二巻では、意外な人のことがわかりました。
と言っても、私は記憶力が悪いので、展覧会などで解説を読んでいるのに、忘れている可能性がありますが。

長谷川等伯は北陸の生まれなのだそうです。
能登の七尾に生まれ、染物屋に養子に入り、養父から絵を学んだそうです。
羽咋(はくい)の日蓮宗妙成寺に彼の描いた「涅槃図」と「日乗上人画像」があるそうです。
彼が七尾を出て京都に行くのは、養父母が亡くなった三十三歳のことです。
妻子もあり、若くはないのに、勇気がありますね。
京都ではただの田舎画家でしかなかったはずですが、何故等伯は有名になったのでしょうか?
当時は狩野派がもてはやされていたはずです。
そう彼のバックには大きな影響力を持つ人がいたのです。
それはあの千利休です。
ワビサビの利休ですから、狩野派の派手派手さは合いませんよね。
等伯は高い評価を得ましたが、それも長くは続きませんでした。
利休が自刃し、息子が急死してしまったのです。
残念ながら、彼の跡を継ぐ弟子もいなかったようです。
等伯が晩年に描いた「松林図」について、五木はこう書いています。

「彼が頂点に達したときに味わった悲しみと挫折。そのなかで、ふっと目の前に蘇ってきたふるさとの情景。もやに霞んだ松林の景色が、ふるさとの記憶として彼の頭にはずっと残っていたのだろう。名声をきずいたとはいえ、染物屋の養子として育ち、絵師という当時の一所不在の一員であった過去。皮革を扱った武野紹鷗の流れをくみ、竹と緑の深い茶人。利休との縁。そのわび、さびのルーツは山河に流浪する夢でもあった。
その記憶が、あの異色ともいえる水墨画となったとは考えられないだろうか。私はそんなふうに勝手に想像している。」

等伯の故郷に今度行ってこようかしら。