サイモン・ウィンチェスター 『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』2021/06/25

映画「博士と狂人」の原作を読んでみました。
主に映画で描かれていなかった2人のことを抜粋していこうと思います。
詳しくは本を読んで下さいね。


まず、「博士」の方から紹介しましょう。
ジェームズ・オーガスタス・ヘンリー・マレーは1837年2月にスコティッシュ・ボーダーズのホーイックという小さな町に、信仰心の篤い、仕立屋と織物商を営む家の長男として生まれました。
貧しい家庭だったので、高度な教育は受けられませんでしたが、こつこつと独学し、15歳のときにはフランス語、イタリア語、ギリシア語の実用的な知識を身につけるようになっていたそうです。
彼のモットーは「知は力なり」と「刻苦勉励の人生に勝るものなし」で、学校のノートの余白に書いてあったそうです。
語学以外にも地元の地質や植物について独学し、地球儀から地理学を学び、教科書から歴史の知識を身に付け、あらゆる自然現象を観察して覚えようとしていました。14歳で学校を卒業し、「刻苦勉励」を実行しました。
近所の牛にラテン語を教え、呼びかけに応えさせようとしたり、翼の形をした浮き袋をつくろうとして溺れそうになったりしたそうで、ちょっと変った人ですね。
17歳でホーイックの学校に職を得、校長の補佐をする教師になり、20歳でサブスクリプション・アカデミーという地元の学校の校長を務めました。
この頃までに相互向上協会のホーイック支部主要メンバーにもなり、協会で講演をしたり、音声学、発音の由来、スコットランド方言の起源などを主題にした学術論文をホーイックの文学科学協会に提出したりしています。
地元では認められていたのですね。

1861年、24歳の時に彼の人生が少し停滞します。というのも恋に落ち、翌年結婚したのです。相手は幼児学校の音楽教師のマギー・スコットでした。
二年後に子どもが生まれるのですが、幼くして亡くなり、マギーは重い結核を患い、二人はロンドンのベッカムに居を移します。
マレーは今まで続けてきた全ての研究をやめ、生活費を稼ぐためにロンドンの銀行の行員になります。
しかし彼の学問に対する熱情は消えてはいませんでした。
しばらく経つと毎日の通勤列車の中でヒンドゥスタニー語とアケメネス朝期のペルシア語表記法を学んだり、ロンドンの警察官たちがスコットランドのどの地方の出身であるかを話し方から判断しようとしたりし始めたのです。
残念ながらしばらくしてマギーは亡くなってしまいます。
マギーの死後一年ぐらいしてから、彼はエイダ・ラスヴェンと結婚します。
このエイダが映画に出てくる賢い奥さんです。

エイダはマギーよりも社会的・知的な面で優れていました。
父親は大インド半島鉄道に勤めており、アレクサンダー・フォン・フンボルト(ドイツの博物学者、旅行家、地理学者)を尊敬しており、母親は学校時代にシャーロット・ブロンテ(『ジェーン・エア』を書いたイギリスの小説家。)と同級だったそうです。
映画にはそんなに子どもがいなかったようですが、エイダとマレーは11人もの子どもに恵まれました。

1867年に30歳になったマレーは大英博物館に就職を希望する手紙を書きますが、却下されます。
この頃のマレーは言語学に興味があり、ケンブリッジ大学の数学者、アレグザンダー・エリスや音声学者のヘンリー・スウィートと交友関係があったため、学問好きなアマチュア研究者から本物の言語学者に変貌したそうです。
マレーは本来なら彼のような経歴ではなれない言語協会の会員に彼らの紹介でなります。
1869年には言語協会の評議員に選ばれ、1873年には『スコットランド南部諸州の方言』を出版し、この著書により、マレーの名声はゆるぎないものになります。
この頃、フレデリック・ファーニヴァルと知り合い、彼がいたからこそマレーはOEDの編纂に関わることができたのです。

一方の「狂人」、ウィリアム・チェスター・マイナーは1834年6月にセイロンで生まれました。
マイナー家はアメリカの最も由緒ある上流階級に属しており、父のイーストマン・ストロング・マイナーは印刷所の経営者として成功していましたが、その後宣教師としてセイロンに赴きます。
マイナーはマネペイという村の布教施設の診療所で生まれたのです。
3歳のときに母が亡くなり、父はアメリカには帰らず、ウィリアムを連れてマレー半島をめぐる旅に出ます。同地の布教区で再婚相手を見つけようと思ったのです。
(妻が死ねば次を探せばいいという感じだったのですね)
シンガポールでイーストマンはジュディス・マンチェスター・テイラーと出会い、結婚します。
ジュディスは行動力のある女性で、地域の学校を経営し、シンハラ語を学び、それをマイナーに教え、やがて自分で生んだ六人の子にも教えました。
マネペイの布教施設の図書館には蔵書がよくそろっていましたし、イーストマンが印刷業を営んでいたおかげで、文献や新聞に接することもでき、マイナーはニューイングランドにいるよりも質の高い教育を受けました。
両親は彼を旅行に連れて行き、各地の言葉をできるだけ多く習得するように励ましたので、シンハラ語の他にビルマ語、ヒンディー語、タミール語、中国語の方言など覚え、シンガポールやバンコク、ラングーン、ペナン島などの地理にも通じるようになりました。
14歳の時にマイナーはアメリカに帰され、イェール大学で医学を学びはじめ、
1863年2月、29歳で卒業します。

医学部を卒業したマイナーは軍医として入隊を志願します。
時は南北戦争の真っ最中です。
1863年6月にゲティスバーグの戦いが起こります。
11月にマイナーは正式な契約を交し、軍医補佐代理となります。
著者は「1864年に起こった一つの、または同時に発生したいくつかの出来事がマイナーの精神を混乱させ、精神異常と判断された状態へと彼を追いやった」と書いています。
マイナーは「ウィルダーネスの戦い」で、「戦闘の徹底的な残忍さと、戦場の無情な環境」にさらされ、この戦いでマイナーは、後に彼が精神に異常をきたした原因の一つと考えられる、脱走兵(アイルランド兵)に焼き印を押すことを命じられました。

1866年2月、マイナーは将校になり、秋には大尉となりますが、妄想症の初期症状があらわれます。無法者にあとをつけられて襲われるかもしれないからと、違法なのに勤務時間外に銃を携帯し、売春宿の常連になるようになったのです。
彼の軌道を逸した行動を知った軍医総監部は、彼をフロリダのフォート・バランカスという辺鄙な場所に隔離します。このことは彼にとって屈辱的なことでした。
彼はむら気で、攻撃的になるかと思えば、穏やかな時には絵筆を取ってすばらしい絵を描いていました。
やがて彼は仲間の兵士に不信感を抱き始め、妄想が始まります。
1868年の夏、とうとうマイナーの精神がおかされ始めていることが、初めて正式に認められます。
マイナーが周囲に知られずに精神病院に行けるようにと望んだため、ワシントンの病院に密かに送られることになります。
そして治癒する望みがないため「職務遂行中に生じた原因によって完全に能力を奪われた」として退役させられます。
マイナーはアメリカ合衆国陸軍退役軍人となり、生涯にわたり給料と年金が支給されるようになったのです。

1871年2月にマイナーは精神病院を出、一年ほどヨーロッパで過ごそうと10月にボストンからロンドン港へ向かい、11月にロンドンに到着します。
1972年2月17日、午前2時過ぎ、ランベスで三発の銃声が響きました。
銃を撃ったのはマイナーで、どうも幻覚に悩まされており、殺人を犯してしまったようです。
殺されたのはジョージ・マリットという34歳のライオン・ビール醸造所の罐焚きでした。
マイナーはイギリスに来てからは居場所を転々と変え、ランベスには「簡単に慰めを与えてくれる女たちのところへすぐに行けるから」と移ってきていました。
裁判で陪審は「被告人は法的に無罪」とし、首席裁判官は「女王陛下の思し召しのあるまで保護処分とする」と言い渡しました。
マイナーはバークシャーのクローソン村にあるブロードムア刑事犯精神病院に、精神異常を証明された刑事犯として、終身監禁されることになります。

ブロードムアでマイナーは「癇癪性でもなければ自殺の恐れもなく、人に危害を咥えるほど暴力的でもない」ので、第二病棟に入れられました。
彼は生まれもよく、高度な教育を受けており、収入もあったので、特別待遇を受けます。独房を二室与えられ、望むものはなんでも手に入れることができました。
本をロンドンの大きな書店から取り寄せ、自費で書棚をつくらせ、西向きの部屋を書斎にします。
もう一つの部屋にはイーゼルと絵の具を置き、領事から送られてくるワインやバーボン・ウィスキーをそろえ、フルートを吹いたり、他の患者に教えたりしました。
許可を受け、一人の患者仲間に賃金を払い、部屋の整頓や本の整理、絵を描いたあとの掃除などの仕事をさせていました。
なんとも優雅な生活ですね。

マイナーはブロードムアの生活に徐々に慣れ、この大病院を自分の家と見なし、看護人を家族と考えるようになっていきます。
彼は自分のしたことを後悔し、償いをしようとします。
被害者の未亡人のイライザに手紙を書き、できるかぎりの方法での援助を申し出、彼女に訪問できないかと尋ねたのです。
マイナーの継母のジュディスがすでにお金の援助をしていたのですが、マイナーはもっと多くのことをしたかったのです。
映画ではイライザは援助を断っていますが、実際は承知したみたいです。

1878年、マレーはオックスフォードに招かれ、理事会メンバーとの初めての面談にのぞみ、1879年3月1日にマレーが「ロンドン言語協会を代表して編纂主幹をつとめ、『歴史的原理にもとづく新英語辞典』の作成にあたり、四つ折り約7000ページ、全四巻のおおきな辞典を10年間で仕上げる」という内容の、文書による正式な合意が成立しました。
マレーはミル・ヒル校の敷地に波形鉄板製の小屋を建て、写字室と名づけ、そこで編纂作業を行い、「英語を話し、読む人びとへ」の四ページにわたる「訴え」を書いて発行させ、多数の篤志文献閲覧者を新たに募ることにします。
1879年4月にマレーは「訴え」を発行し、2000部印刷させて書店で配布してもらいます。

1879年の末頃にイライザはマイナーと対面します。彼女には7人の子どもがいたそうですが、映画のように子どもをマイナーと会わせてはいないようです。
最初の対面以降、イライザは毎月クローソンに来るようになりますが、友情までには発展しなかったようですし、もちろん恋愛まで進まなかったようです。
彼女から彼の求める本を買い集めて、訪問するときに持参しようと言いました。
残念ながらそれも二、三ヶ月しか続かなかったそうです。
なぜなら彼女、飲酒にふけるようになっちゃったからです。
それにもかかわらず、彼女のしたことはマイナーとマレーにとって幸運な出来事でした。
イライザが持って来た本の包みの中に、篤志協力者を求めるマレーの有名な「訴え」が入っていたことは、間違いないからです。

マイナーは「訴え」を読むとその場でマレーに返事を書き、閲読者として奉仕することを正式に申し出ます。
マイナーと辞典との関わりは1880年か1881年に始まったようです。
マレーはマイナーが文学好きで暇な時間のある開業医か、引退している内科医か外科医だと思っていました。
マイナーは本から単語と文を拾い集めて整理し、索引をつくり、単語カードを作っていきました。
辞書編纂室は必要な語をマイナーに報せれば、後日マイナーから必要な語の載っている章や行を正確に指摘した用例文のカードが送られてきて、植字や印刷にまわすページに貼り付けることができるのでした。
マイナーは「きわめて優れた仕事を迅速にこなす人物で、新しい大辞典のチームにとってなくてはならないメンバー」になっていきます。

1885年、マレーたちのチームはオックスフォードに移っていました。
マレーは教師の職を辞し、辞典編纂の仕事に専念するようになりますが、安い給与で、仕事のペースは耐えがたいほど遅く、はてしない労働時間のために健康はそこなわれていきます。その上出版局の理事会はお金は出さずに口を出します。
マレーは家庭に恵まれており、子どもたちはマレーの仕事を、彼らのできることで手伝っていたようです。
1884年1月29日についに第一分冊が出版されます。
値段は12シリング6ペンスで、352ページにわたってAからAntまでの既知のあらゆる英単語が収録されていました。

マイナーは実際には一万枚のカードを送ったにすぎません。
しかしそのほとんどすべてのカードが役に立ち、そのすべてが必要とされ、注文されていたもので、貢献度は非常に大きかったのです。
最初はマレーはマイナーのことをそれほど気にしていなかったのですが、時が経つにつれ、不思議に思うようになります。一体彼は何者なのか?
それが明かされるのは1889年にハーヴァード大学図書館長のジャスティン・ウィンザーが書字室を訪れた時でした。

マレーとマイナーの二人が面会したのは1891年1月でした。
それ以来20年近くのあいだ定期的にマイナーの部屋や「テラス」で会っていたそうです。
二人は気味の悪いほど容姿が似ていて、特に顎髭と口髭がそっくりでした。

1895年、ブロードムア刑事犯精神病院でマイナーの友人でもあったニコルソン博士が退職し、後任にブレイン博士という極めて厳格な、保守主義の看守が着任し、マイナーは冷たく扱われていると感じるようになります。
マイナーはだんだんと元気をなくし、病状は悪くなるばかりでした。
マレーからの手紙を受け取ったボストンの医師フランシス・ブラウン博士はワシントンの陸軍省とロンドンのアメリカ大使館、そしてブレイン博士にも書簡を送り、マイナーを釈放して家族の保護監督下に置き、アメリカへ帰国させることを求める請願書を内務省に送った旨を示唆しました。
しかしブレインは非情にも内務大臣にそれを勧告しなかったため、大使館も軍も関与しないことにし、マイナーはブロードムアにとどまることになってしまいます。

1902年12月の初め、一大事が起こります。
マイナーが自分の体を切断するという異常な行為をしたのです。
その後ブレイン博士はことごとくマイナーの嘆願を否認し、マイナーは徐々に衰弱していきます。
1910年3月の初めにブレイン博士はマイナーの特典をすべて剥奪します。
これにはエイダ・マレーでさえ彼の無慈悲で傲慢な措置を非難しました。
しかしブレナンは深刻な事故につながる危険があると確信したから彼の特典を剥奪したのだと答えただけでした。
マレー夫婦は納得せず、「学識のある非凡な友人がアメリカに帰国することは許されなければならない」と主張しました。
マイナーの弟のアルフレッドが三月末にロンドンにやってきて、問題を解決しようとします。
彼は先にアメリカ合衆国陸軍と話し合い、イギリス内務省が同意するなら、マイナーを何年も前に幽閉されていたセント・エリザベス連邦病院に移すことが可能だと言われていたのです。
当時のイギリスの内務大臣はウィンストン・チャーチルで、彼は生来アメリカ人に対して同情的であると言われていました。というのも彼の母親がアメリカ人だった
からです。
チャーチルは官僚に命じてマイナーの一件の概要を提出させました。
そこには問題の人物は仮釈放すべきであり、祖国アメリカに帰ることを許すべきだと結論されていました。
1910年4月6日、チャーチルは条件付きの釈放許可書に署名しました。

マレーは妻と一緒に旧友に別れを告げに行き、王室御用達の写真屋にマイナー博士の正式な送別写真を撮らせます。
1910年4月16日、客船ミネトンカ号でマイナー博士はアメリカへと旅立ち、アメリカでワシントンDCのセント・エリザベス病院に収容されます。
ファーニバルはこの年の7月に他界しました。
その五年後、1915年7月26日、マレー博士は志半ばで、胸膜炎で亡くなります。
OEDは彼の死後12年経った、1927年に完成します。
マイナーの妄想はセント・エリザベス病院で過ごすうちに徐々に悪化していき、 1918年11月に「妄想型早発性痴呆」と診断され、1920年3月26日、気管支炎で死去します。85歳でした。

映画のようにマレー博士が出版社と喧嘩し編纂主幹を辞めることはありませんし、マイナー博士のことが世間に知られても、スキャンダルにはなっていないようです。マレー博士はマイナー博士のためにチャーチルに会いに行っていません。
マイナーの側にいつもいた看守マンシーは実在しないみたいです。
フレデリック・ジェームズ・ファーニバルは実在する人で仲がよかったみたいですが、変わり者だったようで、一部の人によると「まったくの道化で愚か者であるばかりか、スキャンダルにまみれたきざな男で、まぬけでもあった」そうです。
意外ですわぁ。映画では策士なのにね。
映画は観ている人をあきさせないようにしないといけないので、色々な演出があるのは仕方がないのでしょうね。

長々と書いてしまいましたが、本は専門書ではないので、とても読みやすいです。
翻訳が今一かも…。
OEDの影にこういう偉大な2人がいたのです。
興味が持てたら是非読んでみてください。

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