朝井まかて 『ボタニカ』2022/02/26

日本植物学の父と言われている牧野富太郎の幼少時から晩年を描いた小説です。


牧野富太郎は文久2年(1862年)、現在の高知県高岡郡佐川町で酒造と雑貨を営む裕福な商家、岸屋の一人息子として生まれました。
父と母は三歳と五歳の時に、祖父も6歳で亡くなったため、祖父の後妻で血の繋がらない祖母・浪子に育てられます。
浪子は植物に興味のある富太郎の望みのままに、高価な書籍であろうが何でも買い与え、好きなように過ごさせました。
浪子の育て方が後の富太郎の奔放な生き方に影響を与えたようです。

明治5年(1872年)、10歳で土居謙護の寺子屋で習字を学び、11歳で名教館に入り、儒学者・伊藤徳裕に学びます。
明治7年(1874年)、学制改革で佐川小学校に入学しますが、小学校の授業に飽き足らず、明治9年に自主退学をしてしまいます。
これ以降学校には通わず、独学します。
周りは期待したのですが、富太郎は家業に精出すわけでもなく、祖母と番頭に任せ、きままな植物採集中心の生活を続けます。

明治10年(1877年)、佐川小学校の臨時教員になります。二年後に高知に行き、高知中学校教諭の永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れます。
明治14年(1881年)、第二回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に上京し、文部省博物局に田中芳男らを訪ねたり、日光などで植物採集をして帰郷します。

明治17年(1884年)には二度目の上京をし、東京大学理学部植物学教室の教授の矢田部良吉を訪ね、同教室の出入りと文献・資料などの使用を許可されます。
この頃、ロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送り、彼から図を絶賛する返事が来ました。
富太郎は東京と郷里を行ったり来たりしながら研究をしていきますが、研究費を湯水のように使ったため、実家の経営が傾き、明治24年(1891年)には実家の家財整理をすることになります。

研究のためなら金に糸目をつけないという、この富太郎の金銭感覚は一生治らず、この後も借金生活が続くこととなります。しかしどうしようもなくなる頃に、何故かいつも彼の借金を肩代わりにしてくれる人物が現れます。
おまけに学歴がない上に、大学所蔵文献の使用方法などで研究室の人々と軋轢が生じ、彼の頓着しない性格故に教授たちから疎んじられ、植物学教室の出入りを禁じられてしまいます。
しかしどこからか助けが来て、研究を続けられることになります。
神さまのご加護があったのでしょうか。
捨てる神あれば拾う神ありですね。

一方、家庭はというと、祖母に従妹・猶と結婚させられますが、彼女を高知に置き去りにし、祖母亡き後、生活費や研究費、書籍等のお金を都合させます。
それなのに自分は東京で小澤壽衛と暮らし、子までなします。
その後猶とは離婚し、壽衛と結婚し、13人子どもができましたが、7人しか成長しませんでした。貧乏の子沢山ですね。
自分ではお金のことは何もせず、妻に任せ、妻亡き後は娘に任せるという一生でした。
妻が亡くなった後、新種の笹に妻の名をとって「スエコザサ」と名づけたといいますが、そんなことより金をどうにかしろよと言いたいです、笑。

富太郎のように94歳まで生きられたら、これほどいい人生はないでしょうね。
その代わり、彼のそばにいた人たちは大変で、よく我慢できたと思います。
時代が時代だったのでしょうね。今なら妻や子は彼を捨てたでしょう。
どれだけ彼に魅力があっても、ゴメンです。
読んでいて、彼ほど感情移入できない人はいませんでした。

南方熊楠や森林太郎(森鴎外)とも縁があったようです。
南方熊楠とは手紙の問い合わせだけで、一回も会ったことがなかったようです。
もし会っていたら二人がどんな会話をしたのでしょうか。興味があります。
南方も変った人だったようですものねぇ。

これからNHKでドラマになるので、読もうと思う方がいるかもしれませんが、この本は長くて読みずらいので、心して読んで下さい。
たぶん女性は富太郎のことを嫌いになっても、好きになることはないでしょう。
男性は彼のことが羨ましくなるでしょうね、笑。