「MINAMATAーミナマター」を観る2022/03/23

アマゾンのプライムビデオで「MINAMATA」も観られるようになっていました。

ユージン・スミスとアイリーン・スミスについては『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』で書いたので、参考にしてください。

気をつけて欲しいのは、この映画にはフィクションの部分が多いということです。
映画上映に際して、熊本県は後援しましたが、水俣市はしなかったと言うのも頷けます。
ユージン・スミスのことは描けていますが、水俣病が描けていたかというと疑問が残ります。


1971年、ユージン・スミスは酒びたりの生活をしていた。
回顧展が終わり、機材も何もかも売り切った。
これで終わりだと思っている時に、ノックの音が…。
それは富士フイルムのCMを撮りに来た広告担当者と通訳のアイリーンだった。

アイリーンはユージンと飲みに行った先で、水俣のことを話し、来週の株主総会の様子を写真に撮って欲しいと頼んだ。
沖縄戦で懲りていたユージンは一端は断る。
しかし、その夜、眠れないユージンはアイリーンが置いて行った水俣の資料を見て、日本に行くことを決める。

ユージンとアイリーンは水俣町に住むマツムラ・タツオと妻のマサコの家に迎え入れられ、水俣の現状を聞く。
彼らの娘のアキコは重度の脳神経障害があるという。彼女を撮らせてもらいたいとお願いするが、断られる。

翌朝、ユージンはたまたま出逢った麻痺のある青年・シゲルにカメラを渡し、人々の生活を撮らせる。
地元の人々はなかなか協力してくれない。
自身や子どもが中毒に苦しむキヨシや地元住民代表のヤマザキ・ミツオたちが協力してくれ、撮影機材を用意し、暗室にできる空家を提供してくれる。
ユージンはチッソの前で座り込む住民たちを撮っていく。

その頃、ユージンたちは水俣病患者が多く入院している病院に潜入し、患者たちを撮影する。
立ち入り禁止の研究施設を見つけ、そこにあった資料から排水が有害であることをチッソが15年前から知っていたことがわかる。

ある日、ユージンはチッソの社長ノジマ・ジュンイチのところに連れて行かれる。
ノジマはあくまでも工場の排水は安全で無害であると主張し、水俣病との因果関係を否定する。そしてユージンに5万ドルをやるから、手を引くようにと、取引きを申し出る。
もちろんユージンは断る。
そうすると、ヤマザキの家に地元警察が家宅捜査にやって来て、家中を荒らし回るという嫌がらせをする。
そのうえユージンの資料やフィルムを保管していた家が何者かにより放火され、全焼する。

ユージンはやる気を失い、もう止めようと思うが、「ライフ」誌編集長のボブに止められる。
やがて気持ちを改め、住民たちに写真を撮らせてもらいたいと真摯に訴えると、やっと住民たちにユージンの気持ちが通じ、協力が得られることになる。

1971年3月7日、株主総会の日。
写真を撮っていたユージンはチッソの社員たちから激しい暴行を受け、病院に搬送される。その後、暴行の後遺症としてユージンは神経障害と視力低下に悩まされ、カメラのシャッターを切ることも、ピントを合わせることもできなくなる。
入院中に、チッソの社員の一人がユージンに焼けたはずのフィルムを返す。

退院後、ユージンはアイリーンの助けを借り、風呂場で入浴するアキコの写真を撮る。

スミスから送られてきた写真を受け取ったボブは「ライフ」で水俣病の特集を組み、水俣の現状が世界中に知られるようになる。
1973年、裁判でチッソの過失責任が認められ、住民たちの勝訴が確定する。
だがその後もチッソと日本政府は十分な補償をしていない。

この後、1975年5月に写真集『MINAMATA』が出版される。
1978年10月15日、ユージン・スミス死去。享年59歳。

風景が日本らしくないので、どこで撮られたのか調べると、セルビアとモンテネグロでした。
出演している子どもたちが日本人らしくなかったのですが、現地の子どもを使ったのでしょうか。
ジョニー・デップが熱演。ユージン・スミスそのものでした。
惜しむらくは、題名が「MINAMATA」ですから、もう少し水俣病のことを描いて欲しかったと思います。
そうそう映画が終わっても、エンドロールまで観てくださいね。

最期にアイリーンさんの言葉を載せておきます。

「実際と異なる点はたくさんあるが、一番大切なのはあの出来事から目をそらさないことだと思う。今も続く問題だと映画を観た人たちが感じ、何かが変わるきっかけになってくれたら」