門井慶喜 『銀河鉄道の父』2022/05/07

犬たちとお散歩に出かけてすぐに雨がポツポツと降って来ました。
残念ですが、お散歩を止めて戻って来ました。
途中の家に綺麗に咲く薔薇の花が。


入り口に薔薇のアーチ。


鉢植えのピンクの薔薇。


こちらも鉢植えです。
庭に鉢植えの薔薇を置くだけでもいいかも。
問題は水やりです。薔薇って水切れすると枯れちゃいますよね。
うっかり者の私は水をやるのを忘れがちです(恥)。
どうやら私は「緑の指」は持っていないようです。


銀河鉄道と言えば宮沢賢治ですね。
この本は父親の政次郎から見た賢治の一生を描いたものです。
政次郎、立派な父となるために頑張るって感じです。

私の中で宮沢賢治とはどういう人かというと、貧しい農家出身で、農民のために農業技術を教えながら詩や童話を執筆をしていた偉人。
幼い妹が亡くなる時に『永訣の朝』を、自らを克己するために、「雨ニモマケズ」を書いた人という感じです。
この本を読んで、如何に私は賢治のことを知らなかったか、思い知らされました。

まず、賢治の生家は裕福な古着屋兼質屋でした。
祖父の喜助が始めた家業を父親の政次郎が継ぎ、繁栄させます。
政次郎は成績優秀で、進学したかったのですが、喜助が質屋には学問はいらないと言ったため進学できませんでした。そのためかどうかわかりませんが、地元の軍医や弁護士などとともに、毎年夏季講習会を開いては、東京から浄土真宗の著名な僧侶や知識人を招いていたようです。

賢治は政次郎とイチの長男として岩手県花巻市に生まれます。
弟が一人、妹が三人います。
七歳の時に赤痢で入院します。この時政次郎は病院に泊まり込んで賢治の世話をし、自身も感染して大腸カタルを起こし、生涯胃腸が弱くなります。
今時の父親ならわかりませんが、明治時代の父親が子どもの看病なんて、ありえないですよね。

賢治は野山を駆けまわり、自由きままな幼少期を過ごします。
特に石が好きで、四年生になった頃には妹のトシと珍しい石を集めることに熱中します。そのため「石っこ賢さん」と呼ばれます。

賢治も成績優秀だったので進学を希望するのですが、もちろん祖父は反対します。しかし政次郎が喜助を説得したので、賢治は盛岡中学校に入学できました。
成績は振るわず、卒業時の席次は八十八人中六十番でした。

卒業後、賢治は肥厚性鼻炎の手術を行います。この時も政次郎は病院で看病し、チフスに感染してしまいます。懲りないですね。
退院してから政次郎は賢治に質屋で店番をさせますが、使いものにならず、仕方なく進学を許します。
賢治に質屋の仕事は合わなかったのでしょうが、嫌なことはしたくないという強い思いもあったのでしょうね。
早稲田か慶応かを選ぶと思った父の期待を裏切り、賢治は鉱物学がやりたいがために盛岡高等農林学校に入学します。
同じ年に妹のトシも女学校から東京の日本女子大学校に入学します。

帰省したときに政次郎が賢治に卒業したら何をしたいかと問うと、賢治は「製飴工場を経営したい」と言います。
政次郎、呆れます。「典型的な金持ち息子の夢ではないか。時代の流行に敏感で、柄が大きく、ゆたかな知識の裏打ちがあり、売る苦労を考えていない」と。
賢治は資金を全額、政次郎が出してくれると思っていたのですから。

卒業後、賢治は研究生としてのこり、土性調査をすることになります。
父は仕送りを止めて給料の月二十円で暮らさせようとは思いますが、そうできませんでした。あくまでも子に甘い父です、笑。
実は賢治は中学生の頃から思いつくかぎりの名目を立てて手紙で父に金をせびってきたのです。
トシとはまるっきり違います。トシの生活は堅実で、仕送りに文句ひとつ言わず、少ない仕送りの中から貯金までしているのですから。

しばらくして賢治は肋膜炎を発症します。
そのため農林学校は退学することにし、帰省します。
半年後に今度はトシが肺炎で入院。賢治は母と共に上京し、妹の看病をします。
驚いたのは、賢治がトシの便の始末までしたということです。かつて父がしてくれたことを自分もできると証明したかったのでしょうか。それともそれだけトシのことが好きだったのでしょうか。
退院後、トシと賢治は岩手に帰ります。トシはそれまでの成績がよかったので、見込み点がつき、卒業が認められます。

賢治は人造宝石の製造販売計画を政次郎に話しますが、反対されます。
怒った賢治は政次郎とは口を聞かず、信仰に生きると宣言し、国柱会(法華宗)に入信し、政次郎(浄土真宗門徒)に改宗を迫り、毎日論争を繰り広げます。
この頃健康が回復したトシは母校の花巻女子学校で教諭心得として教壇に立っており、忙しくしていました。
政次郎は思います。ひょっとしたら「最愛の妹をうしなった心のほらあなを日蓮の土で埋めようとしている」のではと。
この後、賢治は家出し、上京します。

七ヶ月後、賢治は大きなトランクを持って家に戻ってきます。
トシが喀血し、結核が再発したからです。
彼は東京で下宿をしながら働き、トシに勧められた童話を執筆していました。
その時に作った『風の又三郎』をトシに聞かせてからも、賢治は稗貫農学校の仕事の合間に童話を書き、トシのところにその童話を聞かせに通っていました。
トシは24歳で亡くなります。
トシは幼い時に亡くなったという私の思い込みは間違いでした。
どうもトシは賢治にとって妹以上の大きな存在だったようです。

賢治の書いた『雪渡り』が雑誌「愛国婦人」に載りました。
弟の清六に任せて東京の出版社に原稿を見てもらいますが、どこからも断られました。
その後「岩手毎日新聞」に詩と童話が掲載され、政次郎は百部も新聞を買って、親戚や知人に配ります。ホント親バカですね、笑。
賢治は『春と修羅』という本を出版したと言って持ってきますが、近所の納豆屋から金を借りて自費出版していたことがわかります。
呆れた政次郎でしたが、『春と修羅』を読んで、賢治は「ことばの人造宝石」をつくりあげた、「賢治は詩人として、いや人間として、遺憾なき自立を果たした」と思います。
でも売れるのか、この本は…と思う政次郎。

その後賢治は『注文の多い料理店』を出し、四年四ヶ月勤めた学校を辞め、一人暮らしをするために家を出てトシの病棟となっていた桜の家に引越します。
桜の家で賢治は羅須地人協会を設立し、原稿を書き、開墾し、レコードコンサートや読書会を開き、子どもに童話を聞かせ、セロを弾き…気ままに暮らしていました。
しかしそういう生活も長続きしませんでした。結核が再発したのです。
家に帰るように言う政次郎でしたが、賢治は家に帰ろうとはしませんでした。

読みながらお父さんの親馬鹿さ加減に呆れました。
こんなにも息子を溺愛する父はいたでしょうか。
「親の心子知らず」とか「三代目は身上を潰す」とはよく言ったもので、宮沢賢治そのものではないですか。(弟が家を継いだので、潰れませんでしたが)
親をいいように扱い、金を引き出せるだけ引き出し、自分の思い通りにならないからと拗ね、一体君はなんなのと言いたくなりました、笑。

まあ、門井さんの創作が大部分でしょうから、なんとも言えませんが、賢治が金持ちの息子だったことと妹ととても仲が良かったということは本当でしょうね。
夭折したトシが惜しいと思いました。生きていたら、どんな女性になっていたことか。
あ、賢治がいるから、賢治がまとわりついて離れさせてくれなかったかもね、笑。
彼の家族のことを知ってから、もう一度作品を読み直すと、違う見方ができそうです。