群ようこ 『たりる生活』2023/01/31



群さんのエッセイ集。他のエッセイ集を読んだかどうか記憶にありませんが、彼女の本では「パンとスープとネコ日和」シリーズが好きです。
2020年以降続きが発売されていないので、そろそろお願いしますね。

どうしてこのエッセイ集を読んだかというと、引越のお話だったからです。
私は今まで10回以上も引越しをしています。
この頃、引越の虫が騒ぎ出しています。
今の場所は大きい公園が近くにないので、次は大きい公園のそばに住み、犬たちと公園でまったりしたいのです。

群さんは賃貸物件にずっと住んでいるそうです。
前のマンションには27年(だったかな?)も住んでいたそうで、すごいですね。飽きっぽい私には無理ですわ(恥)。
飼い猫が亡くなり、前期高齢者(群さんは1954年生まれ)の仲間入りをし、友だちの弟さんが五十四歳で亡くなった後の騒動のことを聞いて、自分の行く末のことを考え、今のマンションは広すぎるので、断捨離をしてもっと狭いところに引越そうと思ったのです。

本が多くて、なかなか捨てられないというのは、よくわかります。
私も昔は引越屋さんに本が多いと言われました。引越屋さんは重いので本が嫌でしょうね。
この頃はもう一度読みたくなったら図書館で借りればいいと思うようにし、単行本はできるだけ図書館で借り、文庫本はkindleにし、紙の本はなるべく買わないようにしています。
本が溜まらなくなったのはいいのですが、その代わりに食器や洋服が溜まっています。
群さんは気にいった物件に出会い、一応断捨離をしてから引越をすることになるのですが、それでも段ボールが130個もあったそうです。(多いのかどうか、私にはわかりませんが)
引越した先でも物を捨てています、笑。
捨てられないというのは、人間の性なのかしら?

わが家では親が亡くなり、屋根裏部屋に沢山物が残されていたので、業者に頼み全部捨てることになりました。
私の時もそうなりそうなので、できるだけ物は減らしたいとは思います。
そうは思いながら、捨てようと思う物を見て、これってどうやって捨てるのかと迷うことが多々あります。
迷うと面倒なので、そのままにしておくという無限ループにはまってますwww。
そこでふと思いました。
捨てられない人は処分にかかるお金と手間賃を残しておけばいいんじゃないかしら。
いくらかかるのかしら?

引越してから1年経ち、やっと床に物を置かないで済む部屋になった群さん。
余計なお世話ですが、落ち着いてから、また物が増えるのではないかと心配です。
私ならそうなりますが、群さんは大丈夫よね。
そこのところがどうなったのか、次のエッセイ集に書いていただけるとありがたいです。


<今週のおやつ>
おやつはなるべく買わないようにしていますが、ついつい美味しそうなのを見ると買ってしまいます。


2022年度トレンドグルメ2位(1位というところもある)のカヌレです。


冷凍なので、外側のカリカリ感があまりありませんでした。
上にチョコのかかっていない方が好みです。

北大路公子 『お墓、どうしてます? キミコの巣ごもりぐるぐる日記』2023/01/12



久しぶりの北大路さんです。
前に読んだ本では雪かきとビールしか印象に残っていませんでしたww。
今回は彼女のお墓探しかと思って読んでみたら、びっくり。
あのお父様が亡くなっていたのです。
ご冥福をお祈りいたします。

というわけで、お墓はキミコさんのではなくて、お父様のなのです。
キミコさんによると、墓を買うという連載にしようと思って、何故か仁徳天皇陵とかの有名な墓地を巡り、「人にとっても墓の意味や死後の身の振り方を考え」ようと思っていたら…2020年2月、コロナがやって来ちゃいました。
残念ながら、どこにも行かずに北海道で考えなければならなくなります。
しかしキミコさんですから、お墓のことを真剣に考えるわけがない(失礼)。
成り行きで市営墓地の抽選に当たってしまい、三年以内に墓石を建てなければならなくなります。
なのになかなか動かないのは流石キミコさん。
お墓どころではなく、お父様が何もしないで亡くなってしまったので、彼の会社の後片付けまでしなければならないなんて、可哀想に…。
でもそれもなかなか進まないのはキミコさんの性格か。

相変わらず変わらないのは、雪との格闘です。
私は高校まで北海道にいましたが、雪かきをしたことがありません(ゴメン)。
知らなかったのですが、雪かきをするスノーダンプ(と言う名前だというのも知らなかった)のことを「ママさんダンプ」って北海道で言うんですって。
商品名にもなっていますね。
私が北海道で暮らしている時は「ママさんダンプ」なんて言っていなかったような気がします。
いつから言い出したのでしょうね。

そうそうこの頃北海道も暑くなり、父の葬儀の時に私は大汗をかいていました。
お年寄りあるあるで、本の中でキミコさんのお母様が8月だというのにフリースの割烹着を着てたりして、大丈夫かぁと言いたくなりました。
クーラーがないのは当たり前だったのですが、今はどうなんでしょうね。

かわいい猫さんが家族になるという微笑ましお話もありましたが、結局最後までお墓は建っていません。
一体どうなるのかしら…。
そのうちお父様の遺骨は人知れずどこかに埋められてしまうか、粉骨されて、知らないうちに撒かれていたりして…なんてことはなくて、次の本が出る頃にはきっとお父様のお墓が建っていることでしょう。たぶんね(笑)。

いせひでこ 『グレイのものがたり』2022/12/21



画家で絵本作家でもあるいせひでこさんがスケッチとエッセイで綴った、シベリアンハスキーのグレイといせさん家族のお話です。
『グレイが待ってるから』と『気分はおすわりの日』、『グレイのしっぽ』の三冊の合本です。

絵描き(いせさん)が友人からハスキーの子犬が生まれたからもらってくれないかと言われ、見に行ってすぐに決めたのがこの子。
名は子どもの大きい方のM(姉)が決めた。

人にそれぞれ個性があるように、犬にも個性がある。
グレイにもグレイの個性がある。

「甘えん坊なのか気が強いのか、おく病なのか、繊細なようで楽天的で、人のふところ具合も考えないでよく食い日ごとにふくれんでいく大きな存在」

そんなグレイにおびえはじめた絵描きさんは道で声をかけてくれた夫人から訓練士をつけた方がいいと言われ、訓練士に来てもらうことにする。
よくあることだが、訓練士の言うことはきくけど、家族のは…笑。

ところがある日、散歩の途中で突然グレイは吐き、倒れそうになる。
てんかんの発作だ。
それからグレイは三週間周期で発作に悩まされるようになる。
やっと薬で抑えることができるようになると、今度は紫外線アレルギーになる。
食欲がすごくなり、以前のグレイはいずこ…。

「食べてねてグレイはドアストッパーになった」(笑)

家は絵描きがチェロを弾くので、音楽に溢れている。
グレイが好きなのはバッハのゴルドベルク変奏曲。(犬のわりにいい趣味しているね)

グレイが四歳になり、一年以上も発作がなかったので安心していたら、絵描きが出かけるという日の夜に大きな発作を起こす。

絵描きはグレイのために引越す。
1戸建ての庭付きでアトリエが一階にあり、いつでも庭にいるグレイが見える家。
ところが引越した後すぐにグレイはまた倒れてしまう。
脾臓が異常に腫れ、肝臓も…。

グレイは退院し、少しずつ元気になっていくが…。

「私とグレイは、フラトレス(兄弟)で、お互いのタブラ・サラ(空白)をうめるために、なくてはならない相手だった」

そう自分とグレイのことを語る絵描きの気持ちが痛いほどわかります。
大型犬は小型犬ほど長生きをしないとはいいますが、二歳でてんかんを発症し、五歳でこの世を去ってしまうなんて…。

「時の観念も死への不安も、ヒトが作り出したものにすぎないから、イヌは臨終かもしれない今日を平気なカオして生きていられるのです」

こう獣医が言ったそうです。

私もいつかみえない犬と暮らし始めるだろう。
その日まで、一日一日を大事に犬と暮らしていきたいと強く思った。

小堀鴎一郎・養老孟司 『死を受け入れること 生と死をめぐる対話』2021/07/18

この本はそれほど生と死については語っていません。
どちらかと言えば、二人の辿った人生について語っていると言った方がいいようです。


小堀さんと養老さんは学校は違いますが、それぞれ1938年、1937年生まれなので同級生です。

小堀さんは森鴎外の孫に当たり、鴎外の娘・杏奴の子です。
小・中学校と自由な教育をすることで有名な成城学園で学びます。
成城学園には試験も成績表もなかったそうです。(今はどうなのかしら?)
中学校三年の時に大秀才の同級生に「医者ほど立派な職業はない」と勧められたから医者になることにしたそうです。
戸山高校から東大を目指すことにしたのですが、いかんせん試験に慣れていません。そのため受験に失敗し他の私立高校に入学し、戸山高校へ編入学をすることにします。一年の時はダメで、二年の時に編入学できました。
しかし当時戸山高校は毎年100人ぐらいが東大に入るような進学校だったので、本人曰く、落ちこぼれてしまい、浪人します。
浪人二年目に東大に合格しますが、医学部に入るためにまた一年浪人したそうです。結構苦労したのですね。東大医学部にそこまでこだわったのは何故なのか?
外科医として食道癌を専門にし、東大医学部付属病院、国立国際医療研究センター病院に勤務し、定年退職後、埼玉県新座市の堀之内病院に赴任し現在に至っています。堀之内病院でのことは、映画「人生をしまう時」を観てください。

養老孟司さんは4歳の時に父親が亡くなり、医者だった母親に育てられます。
小学校四年生から虫取りに夢中になり、それからずっと続けているそうです。
カトリックの修道会であるイエズス会が運営する栄光学園中学校・高等学校で学び、ストレートで東大に入学し、医学部に進み卒業します。
彼が医学部に行ったのは、農家に生まれ、婿をとらされて家業を継ぐのが嫌で、家を飛び出し医者になった母親が、手に職を持った方がいい、医者になったほうがいいと言ったからだそうです。
でもインターン中に三回医療事故を起こしかけ、人って簡単に死ぬんだと怖く思い、医者に向いていないことを悟り、解剖学の道に進んだそうです。
虫取りも解剖も一人でやるので、自分は組織には向かないと言っています。
57歳で退官し、それ以来ハッピーだそうです。

二人で東大の思い出を語っています。
養老さんは昆虫のことを勉強したかったのですが、東大の農学部にあったのは「害虫学」で、虫を見れば害虫と思えというようなところだったそうです。
医学部には変った先生が多かったようです。
例えば、ある教官が「ここから(東大病院)紹介できるのは天国しかない」とか信じられないような傲慢な発言をしたり、東大病院の重みを過大評価して、命が軽く扱われるようなことがあったそうです。
女医も歓迎されていなく、ソ連の医者の半数が女子であるから、ソ連の医療は程度が低いという先生もいたとのこと。
東大に女子学生が少ないのは、東大が女性にあまり向かないからという面があると養老さんは言っていますが、今も変っていないのかしら?

80歳を越している二人ですが、健康診断もせず(小堀さんは医師の義務としての最低限の検査のみ)、病院にも行っていないそうです。健康なのですね。
養老さんによると、ホスピスに勤めている女医さんが、ホスピスで一番元気そうにしているのは、その日その日を楽しんで生きている人だと言っていたそうです。
その人たちにとっては今しかないんだから。死ぬことを考えても仕方がない。今日一日どうやって暮らすかを楽しんでいる。要するに、それが生きているということだと。
「人生は遊び半分でいい」というのが彼の言葉です。
小堀さんは「死を怖れず、死にあこがれず」と言っています。
二人共に自分の好きな仕事をして、社会的に認められているからこそ、人生に悔いはないと言えるんでしょうね。

本の中に出てきた茨木のり子の詩「さくら」を載せておきます。


さくら

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
据えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を
ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と


「死こそ常態 生はいとしき蜃気楼」とは深い言葉です。
若い頃は「自分の感受性ぐらい」や「わたしが一番きれいだったとき」が好きでしたが、老いを感じるこの頃は73歳で書いたといわれる「倚(よ)りかからずに」が心を打ちます。


倚(よ)りかからずに

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ


「倚りかかるとすれば それは 椅子のせもたれだけ」とはなんと潔いことか。
茨木さんは夫が亡くなった49歳の頃から独り暮らしをしていました。
79歳の時、親戚の人が訪ねてきて、亡くなっている茨木さんを発見。遺書は死ぬ前から用意されていたそうです。
望むらくは、彼女のような死を。
死を選べなくても、自分の望みだけは前もって告げておこうと思います。
後は委ねるだけですよね。どうなることやら。

矢崎存美 『ランチタイムのぶたぶた』2021/06/27



いつも可愛い表紙です。
お弁当のタコさんとカニさんがいいなぁ。

さて、今回のぶたぶたさんは何になっているかというと、コロナ禍ですので、今は一端お休みしています。
彼はパートをしながらせっせと評判のいいお店にランチを食べに行っています。
そのランチで出会った人とのお話、7話。

たまたまランチに行った店にぶたぶたさんがいたら、びっくりしますよね。
何しろぬいぐるみですから。でもぶたぶたさんと話すとみんな彼のことが好きになるみたいです。
あとがきに矢崎さんが書いてますが、『孤独のグルメ』のぶたぶたさん版って感じです。

でてくるランチは言うまでもなく美味しそうです。
「豚肉の唐揚げ」とか「新玉ねぎの天ぷら」、「チャーシューエッグ」、ものすごく食べたい。なんのことはない料理なのに、すごく美味しそう。
自分で作ればいいじゃんと言われそうですが、一年以上も外に食べに行っていないので、人が作ってくれた料理を食べたいです。
東京にいる限り、当分は外食しに行く気になれないですが。

昨夜は急に思い立ち、プリンを作ってみました。


レシピはこの本(↑)。16㎝のストーブを使いますが、12㎝でも良さそう。
その時は液は鍋の三分の一程度にすることと覚えておきましょう。

写真を撮るのを忘れ、半分食べてしまいました、笑。


とっても柔らかいプリンなので、半分に切ったら崩れてしまいました(恥)。
舌触りがなめらかで、美味です。
鍋が1つしかなかったので、1つしか作りませんでしたが、もう1つ鍋を買って、お皿に移さずに食べたいです。
このプリンなら子どもも喜びそうです。
是非お試しを♡。

大野更紗 『シャバはつらいよ』2021/05/03

散歩中に見た花シリーズ。


色が独特です。たぶんアフリカキンセンカの一種だと思うのだけど…?


これはウツギの一種かな?
結構知らない花がいっぱい咲いているので、何の花か調べるのが楽しいです。



大野さんの本は『困ってるひと』を読んでいますが、その後がどうなったのか気になったので読んでみました。
2010年6月末から2013年4月までの様子が描かれているようです。

大野さんはミャンマー難民支援や民主化運動に関心を持ち大学院に入ったのですが、病に倒れてしまいます。
なかなか病名もつかず、困っていましたが、やっと「皮膚筋炎」と「筋膜炎脂肪織炎症候群」という病名がつきます。
「自己免疫疾患」で、本人曰く「全身の免疫システムが暴走して、自分自身を攻撃するという類の病」だそうで、原因がわからない、治療方法もわからない「難病」です。
この本には通算九ヶ月間の入院を経て退院してからのことが書かれています。
入院中に色々とあったので、退院後は「一人で生きていく」と決めたようですが…。

入院していると「特定疾患」を申請しても月に12万円ほどかかったそうです。
大野さんはご両親が働いているので払えますが、もしお金がなかったら、どうなるのでしょうね。
退院後、病院まで歩いて2、3分のところに部屋を借りて住み始めます。
ご両親の住んでいる福島には病気を治せる医者がいないから仕方がないのです。
ヘルパーを一日一時間頼めることになったそうですが、それにしても日本の福祉って厳しいですね。大野さんのような人でもヘルパーが一時間ですか。
自分ではできない家事を頼むと一時間なんてすぐに終わってしまいますよ。
寝たきりではないので、やれることは自分でやれということなのでしょうか。

Twitterっていうのはやったことがないので、わからないのですが、何かつぶやくと、それを読んだ人が助けに来てくれることがあるんですね。
大野さんはTwitterに大分助けられています。親切な人っているんですね。
定期的にというのが負担でも、たまたま時間が空いていたり、気が向いた時になら人助けができることがありますものね。
Twitterができなくても、その時に必要な助けを求める術は何かないでしょうか。

2011年3月11日には区の相談支援担当の職員の方が安否確認に来てくれたそうです。どこの区にお住まいかわかりませんが、区によってはこういうこともしてくれるのですね。私の区はどうなのかしら?
Twitterで『おせっかい、高齢者、障碍者、難病患者、周辺近所に声をかけまくって』、『ステロイド、透析、血液製剤、免疫抑制剤等、医療行為・薬品が生命維持に毎日不可欠なひとのライン確保を』とつぶやいたそうです。
これは大野さんだからこそわかることですね。
病気のない元気な人にはわからないことです。
人に迷惑をかけないように、ひっそりと生きていくのもいいのですが、有事の時は声を上げないとわからないことがあるので、声を上げていくことも大事ですね。

色々と大変なことがあっても、それをサラッと書いているところが読んでいても好感が持てます。
シャバで移動する時は杖を使い、ヘトヘトになりながらだったので、電動車椅子を買うことにして、やっと届いた所で終わっていますが、その後が気になりました。
車椅子で色々な場所に行けるようになったのかしら?
あとがきに2013年4月に別の大学の大学院に入り直し、社会保障のシステムの勉強を始めたと書いてありましたが、今は何をなさっているのでしょうか。
調べてみると、今年の4月に東京大学医科学研究所公共政策研究分野特任研究員になったようで、ずっと研究中心の生活をなさっているようです。
お元気そうで、何よりです。

クリスマスの歌・絵本・映画2020/12/04

早いもので、もう12月です。
今年は特に何をしたということがなく、過ぎていきました。
来年はワクチンと治療薬ができ、普通の暮らしができるようになるといいのですが。
そういう期待を込めて、年末は少し派手に(?)行事をしてみましょうか。

クリスチャンではないのですが、まずはクリスマス。
新しいクリスマス・アルバムを買います。
イギリスでMichael Ball & Alfie Boeのクリスマス・アルバム「Together 
At Christmas」がBTSを抜いてチャート1位だそうです。


YouTubeに色々とアップされていたので、興味のある方は聞いてみてください。
オーソドックスな、しっとりした大人のクリスマスソングです。
アルフィーの声がマイケルよりも大きくて迫力がありますけど(笑)。

Michael Ball, Alfie Boe - Together At Christmas Medley
                                   O Holy Night
                                   Silent Night 
                                  
アマゾンでCDを頼みました。
    
  
甥に昨年双子が生まれたので、リクエストされたクリスマス・ツリーと私の趣味の絵本をプレゼントすることにしました。


まだ一歳には早いですが、買ってしまったので、送ります。
小学校低学年までの子ども向けですね。
一番のお勧めは『とのさまサンタ』です。お殿様がクリスマスのことを知り、家来達にプレゼントを用意させ、サンタになって配るという話で、意外性があって子どもに大うけします。
『サンタクロースと50ぴきのトナカイ』は太ってしまったサンタさんとトナカイさんがダイエットをするというのが可愛いです。
『100にんのサンタクロース』は子どもと一緒に100人いるのか数えてみるといいでしょう。色んなサンタさんがいますよ。
他にもいいクリスマスのお話がありますが、今年はこの5冊にしました。



映画は『サンタクロースになった少年』です。
何年か前までクリスマスが近付くと、『ホーム・アローン』や『シザーハンズ』を見ていたのですが、今年はこの映画を観てみました。

クリスマスの夜に家族を失った少年・ニコラスが、村の家族と1年ごとに暮らすことになります。
6年目になり、早霜が畑を覆いつくし、湖から魚が消え、誰もニコラスを引き取れる状態ではありませんでした。
家具職人で子ども嫌いのイーサッキがニコラスの器用さを見込んで、引き取ってくれることになります。
ニコラスは一生懸命働き、夜にはお世話になった村の子ども達のために玩具を作り、クリスマスイブの夜に村の家の前にプレゼントを置いていこうとします。
それを知ったイーサッキも手伝ってくれるようになります。
次のクリスマスの日、他の家族の元へ行こうとしたニコラスにイーサッキはこれからも一緒に暮らしていこうと言います。
それから何年か経ち、老いたイーサッキは実の息子と暮らすと告げ、ニコラスに実の息子のように愛していた、家と貯めた全財産をニコラスに譲ると言って去っていきます。
ニコラスはイーサッキの財産を使い、子ども達に玩具を送ることを生涯の仕事とすることにします。

フィンランド語の響きがいいですね。
82分と短い映画ですが、フィンランドの冬の厳しさがよくわかります。
特に湖が神秘的で、湖は死んだ両親と妹のお墓でもあるんですね。
まあ、大人だと色々と言いたくもなることがあるかもしれませんが、フィンランドのお伽噺だと思って観てください。

クリスマスツリーでも飾ろうかと思ったら、夫から拒否されました。
小さいツリーでも買って、こっそりと飾っておこうかしら・笑。

ドキュメンタリー「おかえり お母さん」&『いつか来る死』2020/11/30

ぼけますから、よろしくお願いいたします。」のその後を描いたのが、「おかえり お母さん その後の「ぼけますから、よろしくお願いいたします。」」です。

アルツハイマー型認知症になった信友直子さんのお母様は、2018年10月、食事中に脳梗塞で倒れました。
お父様は片道1時間かかる道を歩いて病院に通いました。
リハビリに励む妻を見て、自分が介護しようと思ったお父様は体力作りを始めます。
彼は98歳。それより若い私でさえ筋トレなんかやっていません(恥)。
その上、娘の直子さんが「一緒に介護しようか」と尋ねると、「働けるうちは働いていいよ。わしが介護します」と言うんです。

残念ながらお母様は脳梗塞を再発してしまいます。
寝たきりになる可能性がでてきたため、療養型の病院に移ることになり、その合間に家に一度連れ帰ります。
お母様は家に帰ったことがわかるのか、泣いていました。

お母様がまた病院に入院して、お父様は一人暮らしを続けます。
99歳になったというのに、お風呂の残り湯を使い洗濯物を手で洗っています。
腰が曲がっていますが、身体は丈夫なのですね。
なんで全自動洗濯機を買ってあげないのかと、また思ってしまいました。
洗濯機の置く場所がないからかしら?

今年の3月から病院は面会禁止になり、その頃からお母様は少しずつ弱っていきました。亡くなる間近に面会が許され、お父様は毎日お母様の手を握り続けました。
6月、お母様はお亡くなりになりました。91歳でした。
私には羨ましい最期でした。

11月にお父様は百歳になり、市長からお祝い金をもらい、とっても嬉しそうにしています。120歳までは生きるそうです。

本当にお父様はすごい人です。百歳になってもしっかりしています。
120歳と言わず、もっと長生きしてください。
お父様にエールを送りたくなるドキュメンタリーでした。



小堀鴎一郎さんは映画「人生をしまう時間」に出ていた医師です。
糸井さんとの対談が主な本です。
表紙の写真は小堀さんの家の庭のようです。彼の両親(鴎外の娘・小堀杏奴と画家の小堀四郎)の家の跡に家を建てたそうです。
出てくる写真は彼の家で写したそうで、鬱蒼とした木々の生えた広大な敷地のように思えます。家を維持していくために仕事を続けていると言っていますが、冗談ではなく本当なんでしょうね。

糸井さんも若いと思っていたら、もう72歳だそうで、そろそろ死を考えるお年頃ですね。だからこの本を作ったのでしょうね。
彼は性格でしょうか、明るいお葬式を考えています。それだけ人との繋がりを大事にしてきたのでしょうね。
彼の楽観的な死生観と小堀さんの理性的な死生観とが混ざり合って、重すぎない死を語る本になっています。

本の中の心に残った言葉。

「ちゃんと生きてない人は、ちゃんと死ねないんですよ」
「人は生きてきたようにしか死ねませんからね」

「「死に目に会えないのは親不孝者」といった考えは思考停止の一つです」

「本人の希望を叶えても、叶えられなくても、残された家族は何かしら後悔するんです。ああしてあげればよかった、こうしてあげればよかった、と思い続ける。それは仕方のないことで、時間をかけて納得していくしかないんでしょうね」

これらはすべて小堀さんの言葉です。
在宅医療医として400人以上を看取ってきた82歳の人の言葉は、厳しさと優しさのあるものだと思います。

重松清 『希望の地図3.11から始まる物語』2020/10/12

2011年3月11日14時46分18秒、あなたはどこにいて、何をしていましたか。

私は職場で働いていました。
揺れがいつもより長く続いているなと思っていました。
その後、しばらくして、職場の人に東日本の方が地震で甚大な被害を受けているようだと聞き、みんなでテレビを見ました。
東京では地下鉄が止まったようですが、すぐに動くと思っていました。
しかし帰宅時間になっても地下鉄は動きません。
バスが動いていることがわかったので、近くのバス停からどのJR駅まで行けるか、そしてそのJR駅から家の近くまで行くバスが出ていないかを調べました。
バスは遅れてきましたがJR駅まで行けました。
JR駅前は混み合っていて、どのバスも大幅に遅れていました。
バスには何本か乗れず、7時頃にようやく乗れました。
運転手さんは、運賃を払わなくていいですからとにかく乗ってくださいと言っていました。
私は終点で降り、30分ぐらい歩きました。
降りた周辺は何回も家から歩いて来ていたので、迷わずにすみました。
途中で通りかかったホテルの人にトイレが使えますからどうぞと言われ、トイレをお借りしました。
夕食を作る気がしなかったので、スーパーに寄りましたが、すぐに食べられるパンもラーメンも何もありませんでした。
マンションのエレベーターはありがたいことに動いていて、電気もガスも使えました。(この時は20階以上に住んでいたので、エレベーターが動いていなかったら階段で上らなければなりませんでした)
家の中は何も被害がありませんでした。
温かい飲み物を飲み、やっとホッとしました。
夫は職場で夜を明かすことになりました。
この後の原発事故のことは、この時は思いもよりませんでした。


2011年9月、光司は中学受験に失敗し、入学した中学校でいじめに遭い、不登校になっていました。
光司の父親はフリーライターをしている友人の田村章とひさしぶりに会って飲んだ時に、息子のことを話しました。
そうすると、田村は次の日曜日に光司を秋葉原まで連れてくるようにといいます。
東日本大震災の取材をしていて、その取材の様子を見せたいのだというのです。

それから光司は田村に連れられて、被災地を回る旅へと出ることになります。
「「希望」だけでは被災地を語れないし、「絶望」だけでも語れない」。
田村は光司に被災地の「希望」の面を見せていきます。

訪れた場所は、宮古、陸前高田、釜石、大船渡、仙台、気仙沼、南三陸、いわき、南相馬、飯舘・・・。
取材した先は、『写真救済プロジェクト』や『りんごラジオ』、石巻日日新聞、『アクアマリンふくしま』、『被災地からの声』、「希望学」プロジェクト、『スパリゾートハワイアンズ』、『浄土ヶ浜パークホテル』、『復興ダコの会』、岩手県北自動車、『ケセン語訳 新約聖書』、株式会社阿部長商店、大正大学のボランティアたち、『青空コンビニ』・・・。

被災地を回るたびに光司の心に少しずつ変化が起こってきます。

田村はこう言っています。
誰もが胸の奥に、「希望をたくわえる器」が備わっていると。

「希望とは目的地ではなく、歩くことそのものの中にあるのだ。先は長い。休んでも、歩くのをやめるわけにはいかない。希望の大きなかたまりを一つ拾って器が満杯になるなら話は早い。でも、たった一つの希望でしか満たされない世の中というのは、なんだか怖くないだろうか?
小さな希望でいい。その代わり、感動やよろこびや涙や微笑みなどに姿を変えているはずの希望のかけらを、たくさん。さまざまな色や形のものを、こまめに」

人が生きていけるのは、「希望」があるから、胸の奥に「希望の器」があるからこそ、生きていけるのです。

重松さんは実際に被災地に赴き、この本を書いています。
ルポにしないで、田村と光司たちに被災地を語らせているのは、彼の何らかの思惑(照れ?)が働いているのでしょうね。

あれから9年が経ち、いつの間にか被災地のことはあまり報道されなくなりました。
実際に被災地がどうなっているのか、興味を持って探さないと知ることはできません(知らないのは私だけ?)。
コロナ禍の現在、国の支援の遅さや考えの浅い(?)政策が色々批判されていますが、東日本大震災の頃から何も変わっていないようです。
例えば雇用調整助成金。申し込みの手続きが複雑をきわめ、支給は四ヶ月後だったそうです。
何やら近頃同じようなことを聞いたような感じですよねぇ。
もっとスピーディに支援ができるようにならないのでしょうか。
何かあっても省察せずにすぐに忘れてしまう、そのことが怖いです。
コロナのことも、終わると忘れ去られてしまうんでしょうね。
そしてまた同じことを繰り返すのでしょうか。

この本で一番心に残ったのは、次の言葉です。

<ぼくらは、世界に対して無力さを感じることに負けてはいけない>

コロンバイン高校銃乱射事件を起こした少年の友人であるブルックス・ブラウンが言った言葉らしいです。(参考文献がなかったので、違っていたら教えてください)
まだまだ今までの日常は戻ってきませんが、希望を持って生きていきましょう。

ブレイディみかこ 『花の命はノー・フューチャー』2020/09/07

絶版だったものが再度出版という運びになったようです。
本屋大賞受賞のよい影響ですね。15年ぐらい前に書かれた本のようです。


イギリスのブライトンというと、港町で避暑地の落ち着いた街なんじゃないかと思っていました。
彼女によると超高級住宅街あり、億ション街あり、貧民街あり、定年後の老人たちがフラットを買ったり、老人ホームにはいったりする、何でもありの街。
浜辺にはトレンディなナイトクラブがあり、ゲイ人口が多い街なのだそうです。
そんな街でトラック運転手の夫と共に暮らしている、みかこさんのパンクな生活が描かれているのが、この本です。

パンクって何?と思う方がいるでしょうね。
パンクは元々「パンク・ロックを中心にしたサブカルチャー」なのだそうです。
パンク・ロックというと、私でも知っているのがセックス・ピストルズです。
彼らが「No Future(god save the queen)」という歌を歌っていますので、どんなもんか聞いてみてくださいませ。
パンクって個人の自由を重んじる、反体制的な生き方かなっと私なりに思っていますが、違っていたらすみません。

アガサ・レーズンの本を読んでいて、イギリスの中年女性の恋愛に対する積極性にびっくりしています。
日本女性と言っても若い女性限定ですが、昔「イエロー・キャブ」と呼ばれていたことがありますよね。
みかこさんによると、イギリス人女性は地中海及びエーゲ海沿岸のリゾート地で「イージー」キャブとしてその名をとどろかせているそうです。
彼女たちは小麦色で黒髪に黒い瞳のラテン系・アラブ系に弱いそうです。
この(みかこさん名付ける)「ホワイト・キャブ」たちは、若くない方もいるのだとか。
その中には英国の夫と子供を捨て、移住し、結婚する人もいるのだそう。
少なくとも日本女性、それも40過ぎ、が金髪碧眼やブラックに夢中になって、今までの生活を捨てて逃避行などという話は聞いたことがありませんね。(私だけ?)
本に出てくる、40歳でトルコに遊びに行き、トルコ人の男性と恋に落ち、英国での結婚生活を精算して、トルコに移住した女性があっぱれです。
彼女曰く、「他人に何と言われようと幸福になったもん勝ちよね」
「日本も英国も、男がつまんないからだと思うわ」。
このバイタリティ、見習いたいですわ。

男と女のことを書いたので、ついでに書いておきます。
「love」は英国ではそれほど深い意味で使われていないようです。
平気で初めて会った人にも、「Thanks, love」って使うそう。
このloveの名詞形、おばあさんが使うかと思ったら、そうでもなく、若い男性も使うことがあるようです。
「I love you.」なんか、親兄弟間で平気で言ってますよね。
英国で異性に「love」と呼びかけられても、「I love you.」とか言われてもそんなに喜べないようです。
じゃあ、どの言葉を英国限定ですが、異性に言われたらいいのかというと、
「I fancy you」。
動詞の「fancy」って英国ではそういう意味だったのね。
まあ、これから私が英国に行って、素敵な男性とそういうことにはなりそうもありませんから、知っていても役に立たない言葉ですけど・・・。

題名の「ノー・フューチャー」ですが、未来がないということは希望がないということで、希望がない未来なんで生きる甲斐がないじゃないかと思う人がいるでしょう。
しかし、みかこさんはこう言っています。

「生きる甲斐がなくても生きているからこそ、人間ってのは偉いんじゃないだろうか。最後には各人が自業自得の十字架にかかって惨死するだけの人生。それを知っていながら、そこに一日一日近付いていることを知っていながら、それでも酒を飲んだり、エルヴィスで腰を振ったりしながら生きようとするからこそ、人間の生には意味がある。そういう意味だったら、わたしもまだ信じられる気がする」

コロナ禍の今、未来が全く見えません。
自暴自棄ならず、時には羽目を外して、私の人生、ノー・フューチャーと叫びながらもささやかに暮らしていく。
そんな人生、世捨て人のおばさんには良さそうです(笑)。