朝井まかて 『白光』2021/08/22



日本初のイコン画家、山下りんの生涯を描いた小説です。

明治5年(1872年)、15歳のりんは絵師になりたくて、家出をし、故郷の笠間(茨城県笠間市)から独りで江戸まで行きます。
本所の生沼家に着いたのにりんを探しに来た兄がやってきて笠間に連れ戻されましたが、それでも絵師になりたいという気持ちは変りませんでした。
そんなある日、百姓に嫁いだ友だちが入水自殺をしたと聞かされます。
このことがあったためか、りんは母と兄に許され、明治6年(1873年)から上京し絵師の道を歩くこととなります。

りんは画業に一途なため、下手な師匠につく気はなく、この人はダメだと思ったらすぐに辞めてしまいますし、人付き合いも上手くないので、周りと軋轢が生じてしまいます。
そのため次々と師匠を変えていきます。
やっとこの人はと思えたのが、中丸清十郎でした。
彼から近代日本初の画学校、工部美術学校が女子学生を募集するという話を聞き、りんは応募して、見事合格になります。しかし月二円の学費など出せません。
困っていると、旧笠間藩の藩主が学費を援助してくれることになります。
明治10年(1877年)に工部美術学校に入学し、ホンタネジーという師に教えを受けます。

工部美術学校で友人となったのは信州岩村田藩士の娘・山室政子です。
彼女は最初は隠していましたが、神田駿河台のロシア正教会の信徒でした。
りんは政子と共に教会を訪れ、宣教師ニコライに紹介されます。
ニコライの人柄に触れ、彼に傾倒するようになり、いつしかりんは洗礼を受けるまでになります。

そんな頃、工部美術学校ではホンタネジーが国に帰り、代わりにやってきた教師たちの画技が劣るため、次々と生徒がやめていっていました。
りんは助手となり、学費を免除されていたため、やめるにやめられず苦しんでいました。
そんなりんの様子に気づいた政子は彼女に「学校はいずれ通り過ぎるべき橋」だと言って諭すのでした。

政子からりんが学校をやめたことを聞いた主教ニコラスはりんに意外な申し出をします。ロシアのサントペテルブルクに絵の勉強に行きなさいというのです。

明治13年(1880年)、りんはノヴォデーヴィッチ女子修道院の聖像画工房で学ぶことになります。
教会の思惑とは違い西洋画を学びたいという思いからロシアに渡ったりんは、困惑します。修道院に寄宿しながら美術学校に通うものだと思っていたのですから。
最初に手渡された手本は明暗法も遠近法も用いられていない、前時代な絵でした。
りんの反発心が発揮されます。
こんなりんですから、だんだんと周りからも疎んじられ、りんはりんで思い通りに学べないというストレスから体に変調をきたすようになります。
やがて肝臓を患ったため二年で日本に戻されることになります。

戻った日本ではロシア留学をしたということでもてはやされますが、りんは帰国後7年間イコンを描きませんでした…。

西洋画を学び、描きたいというりんが何かに導かれるようにイコンを描くようになっていくというのが不思議ですね。
これこそ運命、神の思し召しというものなのでしょうか。
りんの中に気づきがもたらされるまで、それだけの月日が必要だったのですね。

ロシア正教とローマカトリックとプロテスタントとの違いなど全く理解していませんが、ロシア正教ではイコンが信仰の上で重要な役割を果たしているようです。
本の中に書いてありましたが、聖像画とは「単に宗教的主題を描いた絵画」ではなく、「聖像画は人びとの信心、崇敬を媒介するものだ。窓だ。この窓を通して、祈る者は神と生神女、聖人たちと一体になる。ゆえに画師は独自の解釈を排し、古式を守らねばならない」のだそうです。
イコン画家はイコンに自分の名を記しません。イコンは自分のために描くのではないからです。
イコンを描くためには、「我」を捨てることが必要で、りんには難しいことだったのでしょうね。

                                 「ハリストス復活」 1891年

りんの描くイコンは日本人に受け入れやすかったようです。ガリガリに痩せたキリストよりも、このようなキリストの方がいいですものね。
日本の漫画にも通じるかわいらしさです。
これが彼女のできた最終的な妥協点なのでしょうね。

りんの生涯だけではなく、日本のロシア正教会の歴史や御茶ノ水にあるニコライ堂が身近に感じられた作品でした。

笠間には「白凛居」という山下りん記念館があるそうですが、残念ながら昨年1月から閉館しているようです。
ニコライ堂も拝観できるのですが、今は休止中だそうです。