インド仏教指導者、佐々井秀嶺2011/08/08

佐々井秀嶺さんの本、『必生 闘う仏教』と彼の自伝、山際素男著 『破天 インド仏教徒の頂点に立つ日本人』、そしてテレビ番組の放送内容を本にしたもの『男一代菩薩道』の三冊を読みました。


彼のことは五木寛之の『海外版インド 百寺巡礼』で知りました。インドでアンベートカルの意志を継ぎ、インド仏教徒の指導者として君臨しているのが佐々井さんです。

これら三冊の本には彼の人生の軌跡が書かれています。けっしてそ聖人の人生ではありません。
どちらかというと、彼は思い込みの激しい人のようです。それだからこそ、悩みも深いのです。
女好きで、何故自分はこんなにも女が好きなのかと苦しむような人です。
女性にもてたのでしょうが、それを赤裸々に語るところなんか飾りっけのない人だなと思います。
こういう生臭い所がインドという風土に合うのかもしれません。

仏教というと、一人で悟りを開くという静的なものという印象ですが、インドの仏教は不可触民解放と結びついているため、どうしても動的にならざるえないのです。彼は「闘う仏教」と言っています。
闘うと言っても、もちろん仏教ですから”不殺生”です。しかし、仏教徒になるからには、「非暴力を貫くためには、自己犠牲を含む必要最小限の力の行使をみずから選択しなければならない場合があることも、覚悟しておかなければ」ならないのです。
インドで仏教徒であることは、なんと厳しいことでしょう。

佐々井は日本には戻らないと言っていたのですが、彼のことを日本に紹介した山際さんの死をきっかけに、2009年に44年ぶりに一時帰国したそうです。
2004年にフジテレビが彼のインドでの活動を放送したのですが、2009年には第二弾として日本に帰国した彼に密着取材して番組を作り放送したようです。
再放送してくれませんかね。ア、テレビがないか・・・。


日本に帰国して、彼は宗派の違いを超えた仏教の実践を唱えています。

「仏教では釈迦以来”出家”の必要性を説きますが、それは断じて「世捨人」や「傍観者」になることではありません。いったん自我中心の世俗的価値観から距離をおき、慈悲心をもって、みるべきものに目を凝らし、聞くべき声に耳を澄ます。そして再び世俗社会に飛び込んでいくことだと、私は思います」

「座禅や瞑想は、立ち上がってからなにをするか、そのためにあると思います。
そしてまた、社会的実践の支えとなるべき「瞑想」は、時も場所も形式も選ばないはずです。いうなればこの人生すべてが、瞑想なのではないでしょうか。生きる姿勢そのものがヨーガのアーサナ(座法)であり、座禅であり、呼吸や会話が念仏であり題目であり、現実社会で慈悲を実践していくことが仏道である、と私は考えます」

お葬式以外では人々の生活とかかわらなくなってしまった現在の仏教を痛切に批判していますね。
彼の言う仏教なら信じられそう。

人の心をすぐに変えることはできません。彼の戦いはこれからも続きます。
それにしてもインドは理解するにはとてつもなく難しい国ですね。

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