『ジョセフ・クーデルカ プラハ 1968』&『こどもの情景』@東京都写真美術館2011/05/27

写真を見に恵比寿まで行ってきました。
久しぶりのガーデンプレイスです。お花が置かれていて、緑が多くてホッとします。


写真美術館にはウエスティン・ホテルに泊まっている時に行ったので、横の道を通って行くのは初めてです。


真ん中の道を通っていくと、一階の入り口になります。いつもは2階から入っていました。

『ジョセフ・クーデルカ プラハ 1968』を見に行ったのですが、『こどもの情景』もおもしろそうなので、一緒に見ることにしました。


プラハにはチェコスロバキアがチェコとスロバキアの2つに分かれた直後に行きました。
飛行場から市内への電車で出会った男の人がプラハでは「気をつけた方がいい」と言っていたのですが、全然何ともなく、私がプラハにいた8日間は平穏なものでした。彼は何を気をつけろと言っていたのか、未だに謎です。

1968年、プラハはワルシャワ条約機構軍から侵略されます。市民は団結して抵抗しましたが、プラハの春が終焉を迎え、ソ連が導く共産主義への「正常化政策」が敷かれてしまいます。
この時の市民の抵抗の記録を撮ったのが、1938年チェコに生まれたジョセフ・クーデルカでした。当時、これらの写真は国内で発表できませんでした。そのためスミソニアン博物館の学芸員等の手により、秘密裏にアメリカへ持ち出され、匿名で発表されました。
写真家の名を伏せたまま、ロバート・キャパ賞を受賞しました。
クーデルカが名乗りを上げることができたのは1984年、チェコにいた父親が亡くなってからだそうです。(パンフレットによる)

プラハの道路の真ん中には路面電車が走っています。そのため道路は広いのですが、その道路を戦車が我が物顔で走っています。
銃を向ける兵士に手を振り上げ抵抗する市民たち。
一枚一枚の写真が当時の人たちの怒りを表しています。

見ながら思いました。何故フクシマの人たちは怒らないのだろうかと。
2か月経ってもまだ避難所にいる人たちもいます。
子どもたちは被曝を受け続けています。
友達は「お上のいうことを大人しく聞くのは日本人の習性なのよね」と言いますが・・・。

『こどもの情景 第1部 戦争とこどもたち』では、ユージン・スミスの『楽園への歩み』が迎えてくれます。


この二人のこどもは未来へ向かって歩いているように見えます。彼らの未来が幸福なものであることを祈らずにはいられません。

展示されているのは1930年から1990年までの戦時下の子どもの写真です。
懐かしい東京の深川や牛込の様子(今はどう変わっているのでしょうか)、戦後の浮浪者や乞食たち(彼らは戦後どう生きたのでしょうか)、ナガサキ、学校給食を食べているこどもたち・・・。
アメリカの日系人収容所、そしてベトナム。

おじいさんが私たちに向かって、この写真は有名ですよ、と教えてくれたのが沢田教一の撮った「安全への逃避」という写真です。おじいさん、アメリカ兵が撮ったと言っていました。違いますよ。日本人ですよ。


ナパーム弾から逃げているとおじいさんが言ったのですが、それも違います。
隠れていたのをアメリカ兵に見つかり、川を渡るようにと言われて仕方なく渡っていたようです。
沢田さんはこの写真でピューリッツアー賞を取り、貰った賞金の一部をこの家族に渡したそうです。何故写真を撮る前に助けないのだと批判する人がいて、悩んでいたそうです。彼は後にロバート・キャパ賞を取りました。

沢田さんは「地雷を踏んだらサヨウナラ」の人かと思ったら、「ライカでグッバイ」の人でした。34歳でカンボジアで狙撃され亡くなっています。

なんか被災地の様子が戦場とダブってきました。

美味しいものを食べたいので、ガーデンプレイスの近くにある日仏会館の「レスパス」でランチをすることにしました。
途中にいいお店を見つけました。


ここで食事をするとよさそう。でも雨が降りそうなので、今日はパスです。
どんな料理が出るのかメニューを見てみると、ピザやパスタ、ハンバーガー。ちょっと残念。

「レスパス」は結構混んでいましたが、すぐに座れました。年齢的に60代の方たちが多いような。私たちの横ではフランス人と日本人がフランス語で話しています。
「レスパス」のコンフィ・ランチを頼みました。
オードブルとコンフィ、デザート、コーヒーで2625円です。
オードブルはキッシュ、デザートは洋ナシのタルトにしました。



飯田橋の日仏学院でも食事をしたことがありますが、そちらよりも近代的なレストランです。こってりした味付けなので、カロリーが気になります。夜は軽く食べることにしました。