「ノマドランド」を観る2021/06/28

映画の原作はジェシカ・ブルーダーの『ノマド:漂流する高齢労働者たち』です。


図書館に予約していますが、いつ読めるのかわからないので、そのうち買って読むかもしれません。
映画のポスターは色々とあったのですが、ルネ・マグリット風(かな?)を載せときます。
(ネタバレあり)


「ノマド(nomad)」とは英語で「遊牧民」や「放浪者」を差す言葉。
「IT機器を駆使してオフィスだけでなく様々な場所で仕事をする新しいワークスタイルを差す言葉として定着した」(「知恵蔵」より)そうですが、今の「ノマド」は違いますね。

2008年アメリカの大手証券会社の破綻に端を発する経済危機が世界を襲いました(リーマンショック)。
USジプサム社は2011年1月業績悪化を理由にネバダ州の石膏採掘所を閉鎖します。それにともない企業城下町であったエンパイアも閉鎖され、7月に町の郵便番号が抹消されました。

ファーンの亡くなった夫はUSジプサム社の社員で、彼らは社員住居に住んでいました。ファーンは数年間事務職をし、その後エンパイアの町でレジ係や代用教員をしていまいた。
1年前の採掘所の閉鎖で全住民が立ち退きをしなければならなくなり、住む場所を失いました。
ファーンは荷物を預け、夫の車をキャンピングカーに改造して車の中で暮し、12月いっぱいはアマゾンの倉庫で働くことにします。
ある日仕事の後スーパーに寄ると、教え子と彼女の母親に会ってしまいます。
教え子に「先生はhomelessになったの」と聞かれ、ファーンは「いいえ、house-lessよ。別物よ」と答えるのでした。

クリスマスの日、同僚で親しくなったリンダ・メイと楽しく語らい、飲んでいると、リンダ・メイが自分のことを話し始めます。
2008年はどん底で自殺をしようと思った。12歳の時から働きづめで、2人の娘を育てたのに、62歳になる前にネットで調べてみると公的年金はたったの550ドル(約6万円)。
ボブ・ウェルズの「RV節約生活」を見て、もう働き蜂は止めてキャンピングカーで暮らすことにしたと言うのです。
ボブがRTR(ラバー・トランプ・ランデブー:放浪者の集会)をアリゾナ州のクォーツ砂漠の外れでやるので、行かないかと誘われます。

アマゾンの仕事を終え、職業安定所に行ってエンパイア近郊の仕事を探しますが、年齢やその他不利なことばかりで、仕事は紹介してもらえず、年金の早期受給を申請することを勧められます。しかし年金だけでは暮らしていけません。

車に乗り、アリゾナを目指すファーン。
途中のガソリンスタンドで一晩車を止めさせてもらいます。
とっても寒いからとガソリンスタンドの女性は教会に行くように勧めますが、ファーンは車の中で寝ます。

RTRには様々な人たちが集まっていました。
ボブ・ウェルズがみんなの前で話し、みんなで食事をし、焚き火の周りに集まり、自分のことを話します。
ベトナム戦争に行き、PTSDになった男性、両親が癌でなくなった女性、定年前に亡くなった同僚に、人生を楽しめ、時間を無駄にするなと言われ、仕事を止めた女性…。
ファーンはボブと個人的に話をし、「ここは答えを探すのにはいい場所だ」と言われます。

集会ではRV車で暮らすためのノウハウ、都会で警察にノックされない方法、排泄の仕方などを教えてくれます。
物々交換もありますし、RV車の展示会にもみんなと行きます。

集会も終わり、それぞれが車に乗り去って行きます。
ファーンは残り、車の改造に取り組んでいましたが、タイヤがパンクしてしまいます。
スペアタイヤがなかったので、近くに車を止めていたスワンキーに助けてもらいます。スワンキーはスペアタイヤさえ持っていないファーンがRV車の暮らしに慣れていないことを察し、色々と教えてくれます。
彼女は75歳で、肺がんが脳に転移しており、後7~8ヶ月の命と言われていましたが、病院で死にたくないので、アラスカまで行きたいと言っています。

スワンキーと別れ、ファーンも出発します。
車を止めた場所でコーヒーを配っていると、ボブの集会にいたデイブと再会します。彼はファーンがリンダ・メイと一緒に働く予定のバッドランズ国立公園で働いているようです。
やがて公園での仕事が終わり、リンダ・メイとまたお別れです。
ファーンはデイブが熱を出したので、スープを作り、病院まで連れて行きます。
彼女の次の仕事はネブラスカでのビーツの収穫で、それまでにまだ時間があったので、デイブと一緒にハンバーガー・ショップで働くことにします。

ハンバーガー・ショップにデイブの息子が現れます。
2週間後に子どもが生まれるので、デイブに来て欲しいというのです。
デイブに一緒に息子の家に行こうと誘われますが、ファーンは断ります。

一人で車を運転し、一人で働き、一人で食べるファーン…。

そんな頃、とうとう車が動かなくなります。
車を売って新しい車に買い換えることを勧められますが、ファーンは夫との思い出のある車を手放したくありません。
姉のドリーに借金を申し込みます。

ドリーの家に行き、お金を借ります。
ドリーに一緒に暮らそうと言われますが、ファーンは断ります。

車を運転するファーン。
今度はデイブに会いにいきます。
その途中で前に会った青年と再会します。
彼は北部の農場にいる恋人に手紙を書きたいのですが、彼女が喜びそうなことが書けないと悩んでいました。
ファーンは自分の結婚式の時に披露された詩を教えます。(たぶんシェークスピア)代用教員をしていたことがうなずけますね。でも彼女、喜ぶかしら?

デイブには孫が生まれており、彼はこの先も息子のところで暮らす、ファーンのことが好きだからここで一緒に暮らそうと言います。
馬や鶏、犬が飼われている素敵な田舎家です。
しかし夜になると寝付けず、ファーンは自分の車で寝ます。
次の日の朝、ファーンはデイブに別れも告げずに出発します。

同じような生活の繰り返し。
アマゾンで働き、ランドリーで洗濯し、パズルをし、新年を祝う…。
RTRではスワンキーを弔い、焚き火に石を投げ入れます。

ボブにファーンは話します。
夫のボーは天涯孤独だったので、エンパイアを離れると彼の生きた証がなくなると思い、エンパイアを出ていけなかったと。
ボブは言います。彼の息子が五年前に自殺をした、息子のいない世界で生きていくために、人を救うことが息子の供養になると思えた。
”思い出は生き続ける”。私の場合は思い出を引きずりすぎかもしれない。
ノマドの多くは高齢者でみんな悲しみや喪失感を抱いている。
この生き方が好きなのは、最後の”さよなら”がないからだ。
また会える。君はボーに、私は息子に。

エンパイアの町に戻り、ファーンは預けてあったすべての家財道具を処分します。
そしてゴーストタウンになった町を、工場跡地や住んでいた社員住居、果てしなく続く荒涼たる砂漠を、見て回るのでした。

そしてまたファーンは一人、車を運転し続けます。



リンダ・メイとスワンキー、ボブ・ウェルズは本人として登場していますが、スワンキーの身の上話は演出らしいです。

家を持たず、RV車でアメリカ国中をドライブし、キャンプ場に泊まり、季節労働者として働くノマドたち。(「ワーキャンパー(workamper)」とも言う)
一見自由でいいなぁと思いますが、実際はどうなのでしょうか。
映画にも出てきますが、アメリカの中流層の労働者の公的年金はやっと食べていけるかどうかという額で、働こうにも職は限られ、高齢者向けの仕事の賃金は下がる一方なのだそうです。
そういう状況から家賃や住宅ローンを払わない生活を選択した、「再貧困すれすれの白人高齢者」たちがノマドなのです。(「橘玲の日々刻々」参考)
映画ではなかなかよさそうに思えますが、実際の暮らしは大変でしょうね。

日本はどうでしょうか。似たようなものじゃないですか。
公的年金も下がるばかりで、定年退職をしてから仕事を探しても、現役時代と同じように稼げる仕事はありません。せいぜい清掃業や管理人などのような肉体労働しかなくはないですか?(義理の親たちの状況を見て書いているので、違ってたらご指摘を)
日本は国土が狭いですから、彼らのようにRV車生活はできないです。
都会では警察に通報され、田舎では不審者として扱われ、無理ですね。
そうそう病気をしたらどうなるんでしょう。
こんな心配をする私はノマドにはなれませんわねぇ(溜息)。

ファーンは孤独でも、夫との思い出に生き、縛られない、属さないことに心地よさを感じ、今の暮らしを続けていこうと思っているのかもしれません。
次々と移りゆく自然の美しさに目を奪われます。自然が彼女の心の在りようのように思えました。
彼女のこの生活が長く続き、最期は幸福なものでありますようにと祈らずにはいられません。

旅に出られない今、こういう映画を観て、ココロの癒やしを得てみるのはいかがでしょうか。

サイモン・ウィンチェスター 『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』2021/06/25

映画「博士と狂人」の原作を読んでみました。
主に映画で描かれていなかった2人のことを抜粋していこうと思います。
詳しくは本を読んで下さいね。


まず、「博士」の方から紹介しましょう。
ジェームズ・オーガスタス・ヘンリー・マレーは1837年2月にスコティッシュ・ボーダーズのホーイックという小さな町に、信仰心の篤い、仕立屋と織物商を営む家の長男として生まれました。
貧しい家庭だったので、高度な教育は受けられませんでしたが、こつこつと独学し、15歳のときにはフランス語、イタリア語、ギリシア語の実用的な知識を身につけるようになっていたそうです。
彼のモットーは「知は力なり」と「刻苦勉励の人生に勝るものなし」で、学校のノートの余白に書いてあったそうです。
語学以外にも地元の地質や植物について独学し、地球儀から地理学を学び、教科書から歴史の知識を身に付け、あらゆる自然現象を観察して覚えようとしていました。14歳で学校を卒業し、「刻苦勉励」を実行しました。
近所の牛にラテン語を教え、呼びかけに応えさせようとしたり、翼の形をした浮き袋をつくろうとして溺れそうになったりしたそうで、ちょっと変った人ですね。
17歳でホーイックの学校に職を得、校長の補佐をする教師になり、20歳でサブスクリプション・アカデミーという地元の学校の校長を務めました。
この頃までに相互向上協会のホーイック支部主要メンバーにもなり、協会で講演をしたり、音声学、発音の由来、スコットランド方言の起源などを主題にした学術論文をホーイックの文学科学協会に提出したりしています。
地元では認められていたのですね。

1861年、24歳の時に彼の人生が少し停滞します。というのも恋に落ち、翌年結婚したのです。相手は幼児学校の音楽教師のマギー・スコットでした。
二年後に子どもが生まれるのですが、幼くして亡くなり、マギーは重い結核を患い、二人はロンドンのベッカムに居を移します。
マレーは今まで続けてきた全ての研究をやめ、生活費を稼ぐためにロンドンの銀行の行員になります。
しかし彼の学問に対する熱情は消えてはいませんでした。
しばらく経つと毎日の通勤列車の中でヒンドゥスタニー語とアケメネス朝期のペルシア語表記法を学んだり、ロンドンの警察官たちがスコットランドのどの地方の出身であるかを話し方から判断しようとしたりし始めたのです。
残念ながらしばらくしてマギーは亡くなってしまいます。
マギーの死後一年ぐらいしてから、彼はエイダ・ラスヴェンと結婚します。
このエイダが映画に出てくる賢い奥さんです。

エイダはマギーよりも社会的・知的な面で優れていました。
父親は大インド半島鉄道に勤めており、アレクサンダー・フォン・フンボルト(ドイツの博物学者、旅行家、地理学者)を尊敬しており、母親は学校時代にシャーロット・ブロンテ(『ジェーン・エア』を書いたイギリスの小説家。)と同級だったそうです。
映画にはそんなに子どもがいなかったようですが、エイダとマレーは11人もの子どもに恵まれました。

1867年に30歳になったマレーは大英博物館に就職を希望する手紙を書きますが、却下されます。
この頃のマレーは言語学に興味があり、ケンブリッジ大学の数学者、アレグザンダー・エリスや音声学者のヘンリー・スウィートと交友関係があったため、学問好きなアマチュア研究者から本物の言語学者に変貌したそうです。
マレーは本来なら彼のような経歴ではなれない言語協会の会員に彼らの紹介でなります。
1869年には言語協会の評議員に選ばれ、1873年には『スコットランド南部諸州の方言』を出版し、この著書により、マレーの名声はゆるぎないものになります。
この頃、フレデリック・ファーニヴァルと知り合い、彼がいたからこそマレーはOEDの編纂に関わることができたのです。

一方の「狂人」、ウィリアム・チェスター・マイナーは1834年6月にセイロンで生まれました。
マイナー家はアメリカの最も由緒ある上流階級に属しており、父のイーストマン・ストロング・マイナーは印刷所の経営者として成功していましたが、その後宣教師としてセイロンに赴きます。
マイナーはマネペイという村の布教施設の診療所で生まれたのです。
3歳のときに母が亡くなり、父はアメリカには帰らず、ウィリアムを連れてマレー半島をめぐる旅に出ます。同地の布教区で再婚相手を見つけようと思ったのです。
(妻が死ねば次を探せばいいという感じだったのですね)
シンガポールでイーストマンはジュディス・マンチェスター・テイラーと出会い、結婚します。
ジュディスは行動力のある女性で、地域の学校を経営し、シンハラ語を学び、それをマイナーに教え、やがて自分で生んだ六人の子にも教えました。
マネペイの布教施設の図書館には蔵書がよくそろっていましたし、イーストマンが印刷業を営んでいたおかげで、文献や新聞に接することもでき、マイナーはニューイングランドにいるよりも質の高い教育を受けました。
両親は彼を旅行に連れて行き、各地の言葉をできるだけ多く習得するように励ましたので、シンハラ語の他にビルマ語、ヒンディー語、タミール語、中国語の方言など覚え、シンガポールやバンコク、ラングーン、ペナン島などの地理にも通じるようになりました。
14歳の時にマイナーはアメリカに帰され、イェール大学で医学を学びはじめ、
1863年2月、29歳で卒業します。

医学部を卒業したマイナーは軍医として入隊を志願します。
時は南北戦争の真っ最中です。
1863年6月にゲティスバーグの戦いが起こります。
11月にマイナーは正式な契約を交し、軍医補佐代理となります。
著者は「1864年に起こった一つの、または同時に発生したいくつかの出来事がマイナーの精神を混乱させ、精神異常と判断された状態へと彼を追いやった」と書いています。
マイナーは「ウィルダーネスの戦い」で、「戦闘の徹底的な残忍さと、戦場の無情な環境」にさらされ、この戦いでマイナーは、後に彼が精神に異常をきたした原因の一つと考えられる、脱走兵(アイルランド兵)に焼き印を押すことを命じられました。

1866年2月、マイナーは将校になり、秋には大尉となりますが、妄想症の初期症状があらわれます。無法者にあとをつけられて襲われるかもしれないからと、違法なのに勤務時間外に銃を携帯し、売春宿の常連になるようになったのです。
彼の軌道を逸した行動を知った軍医総監部は、彼をフロリダのフォート・バランカスという辺鄙な場所に隔離します。このことは彼にとって屈辱的なことでした。
彼はむら気で、攻撃的になるかと思えば、穏やかな時には絵筆を取ってすばらしい絵を描いていました。
やがて彼は仲間の兵士に不信感を抱き始め、妄想が始まります。
1868年の夏、とうとうマイナーの精神がおかされ始めていることが、初めて正式に認められます。
マイナーが周囲に知られずに精神病院に行けるようにと望んだため、ワシントンの病院に密かに送られることになります。
そして治癒する望みがないため「職務遂行中に生じた原因によって完全に能力を奪われた」として退役させられます。
マイナーはアメリカ合衆国陸軍退役軍人となり、生涯にわたり給料と年金が支給されるようになったのです。

1871年2月にマイナーは精神病院を出、一年ほどヨーロッパで過ごそうと10月にボストンからロンドン港へ向かい、11月にロンドンに到着します。
1972年2月17日、午前2時過ぎ、ランベスで三発の銃声が響きました。
銃を撃ったのはマイナーで、どうも幻覚に悩まされており、殺人を犯してしまったようです。
殺されたのはジョージ・マリットという34歳のライオン・ビール醸造所の罐焚きでした。
マイナーはイギリスに来てからは居場所を転々と変え、ランベスには「簡単に慰めを与えてくれる女たちのところへすぐに行けるから」と移ってきていました。
裁判で陪審は「被告人は法的に無罪」とし、首席裁判官は「女王陛下の思し召しのあるまで保護処分とする」と言い渡しました。
マイナーはバークシャーのクローソン村にあるブロードムア刑事犯精神病院に、精神異常を証明された刑事犯として、終身監禁されることになります。

ブロードムアでマイナーは「癇癪性でもなければ自殺の恐れもなく、人に危害を咥えるほど暴力的でもない」ので、第二病棟に入れられました。
彼は生まれもよく、高度な教育を受けており、収入もあったので、特別待遇を受けます。独房を二室与えられ、望むものはなんでも手に入れることができました。
本をロンドンの大きな書店から取り寄せ、自費で書棚をつくらせ、西向きの部屋を書斎にします。
もう一つの部屋にはイーゼルと絵の具を置き、領事から送られてくるワインやバーボン・ウィスキーをそろえ、フルートを吹いたり、他の患者に教えたりしました。
許可を受け、一人の患者仲間に賃金を払い、部屋の整頓や本の整理、絵を描いたあとの掃除などの仕事をさせていました。
なんとも優雅な生活ですね。

マイナーはブロードムアの生活に徐々に慣れ、この大病院を自分の家と見なし、看護人を家族と考えるようになっていきます。
彼は自分のしたことを後悔し、償いをしようとします。
被害者の未亡人のイライザに手紙を書き、できるかぎりの方法での援助を申し出、彼女に訪問できないかと尋ねたのです。
マイナーの継母のジュディスがすでにお金の援助をしていたのですが、マイナーはもっと多くのことをしたかったのです。
映画ではイライザは援助を断っていますが、実際は承知したみたいです。

1878年、マレーはオックスフォードに招かれ、理事会メンバーとの初めての面談にのぞみ、1879年3月1日にマレーが「ロンドン言語協会を代表して編纂主幹をつとめ、『歴史的原理にもとづく新英語辞典』の作成にあたり、四つ折り約7000ページ、全四巻のおおきな辞典を10年間で仕上げる」という内容の、文書による正式な合意が成立しました。
マレーはミル・ヒル校の敷地に波形鉄板製の小屋を建て、写字室と名づけ、そこで編纂作業を行い、「英語を話し、読む人びとへ」の四ページにわたる「訴え」を書いて発行させ、多数の篤志文献閲覧者を新たに募ることにします。
1879年4月にマレーは「訴え」を発行し、2000部印刷させて書店で配布してもらいます。

1879年の末頃にイライザはマイナーと対面します。彼女には7人の子どもがいたそうですが、映画のように子どもをマイナーと会わせてはいないようです。
最初の対面以降、イライザは毎月クローソンに来るようになりますが、友情までには発展しなかったようですし、もちろん恋愛まで進まなかったようです。
彼女から彼の求める本を買い集めて、訪問するときに持参しようと言いました。
残念ながらそれも二、三ヶ月しか続かなかったそうです。
なぜなら彼女、飲酒にふけるようになっちゃったからです。
それにもかかわらず、彼女のしたことはマイナーとマレーにとって幸運な出来事でした。
イライザが持って来た本の包みの中に、篤志協力者を求めるマレーの有名な「訴え」が入っていたことは、間違いないからです。

マイナーは「訴え」を読むとその場でマレーに返事を書き、閲読者として奉仕することを正式に申し出ます。
マイナーと辞典との関わりは1880年か1881年に始まったようです。
マレーはマイナーが文学好きで暇な時間のある開業医か、引退している内科医か外科医だと思っていました。
マイナーは本から単語と文を拾い集めて整理し、索引をつくり、単語カードを作っていきました。
辞書編纂室は必要な語をマイナーに報せれば、後日マイナーから必要な語の載っている章や行を正確に指摘した用例文のカードが送られてきて、植字や印刷にまわすページに貼り付けることができるのでした。
マイナーは「きわめて優れた仕事を迅速にこなす人物で、新しい大辞典のチームにとってなくてはならないメンバー」になっていきます。

1885年、マレーたちのチームはオックスフォードに移っていました。
マレーは教師の職を辞し、辞典編纂の仕事に専念するようになりますが、安い給与で、仕事のペースは耐えがたいほど遅く、はてしない労働時間のために健康はそこなわれていきます。その上出版局の理事会はお金は出さずに口を出します。
マレーは家庭に恵まれており、子どもたちはマレーの仕事を、彼らのできることで手伝っていたようです。
1884年1月29日についに第一分冊が出版されます。
値段は12シリング6ペンスで、352ページにわたってAからAntまでの既知のあらゆる英単語が収録されていました。

マイナーは実際には一万枚のカードを送ったにすぎません。
しかしそのほとんどすべてのカードが役に立ち、そのすべてが必要とされ、注文されていたもので、貢献度は非常に大きかったのです。
最初はマレーはマイナーのことをそれほど気にしていなかったのですが、時が経つにつれ、不思議に思うようになります。一体彼は何者なのか?
それが明かされるのは1889年にハーヴァード大学図書館長のジャスティン・ウィンザーが書字室を訪れた時でした。

マレーとマイナーの二人が面会したのは1891年1月でした。
それ以来20年近くのあいだ定期的にマイナーの部屋や「テラス」で会っていたそうです。
二人は気味の悪いほど容姿が似ていて、特に顎髭と口髭がそっくりでした。

1895年、ブロードムア刑事犯精神病院でマイナーの友人でもあったニコルソン博士が退職し、後任にブレイン博士という極めて厳格な、保守主義の看守が着任し、マイナーは冷たく扱われていると感じるようになります。
マイナーはだんだんと元気をなくし、病状は悪くなるばかりでした。
マレーからの手紙を受け取ったボストンの医師フランシス・ブラウン博士はワシントンの陸軍省とロンドンのアメリカ大使館、そしてブレイン博士にも書簡を送り、マイナーを釈放して家族の保護監督下に置き、アメリカへ帰国させることを求める請願書を内務省に送った旨を示唆しました。
しかしブレインは非情にも内務大臣にそれを勧告しなかったため、大使館も軍も関与しないことにし、マイナーはブロードムアにとどまることになってしまいます。

1902年12月の初め、一大事が起こります。
マイナーが自分の体を切断するという異常な行為をしたのです。
その後ブレイン博士はことごとくマイナーの嘆願を否認し、マイナーは徐々に衰弱していきます。
1910年3月の初めにブレイン博士はマイナーの特典をすべて剥奪します。
これにはエイダ・マレーでさえ彼の無慈悲で傲慢な措置を非難しました。
しかしブレナンは深刻な事故につながる危険があると確信したから彼の特典を剥奪したのだと答えただけでした。
マレー夫婦は納得せず、「学識のある非凡な友人がアメリカに帰国することは許されなければならない」と主張しました。
マイナーの弟のアルフレッドが三月末にロンドンにやってきて、問題を解決しようとします。
彼は先にアメリカ合衆国陸軍と話し合い、イギリス内務省が同意するなら、マイナーを何年も前に幽閉されていたセント・エリザベス連邦病院に移すことが可能だと言われていたのです。
当時のイギリスの内務大臣はウィンストン・チャーチルで、彼は生来アメリカ人に対して同情的であると言われていました。というのも彼の母親がアメリカ人だった
からです。
チャーチルは官僚に命じてマイナーの一件の概要を提出させました。
そこには問題の人物は仮釈放すべきであり、祖国アメリカに帰ることを許すべきだと結論されていました。
1910年4月6日、チャーチルは条件付きの釈放許可書に署名しました。

マレーは妻と一緒に旧友に別れを告げに行き、王室御用達の写真屋にマイナー博士の正式な送別写真を撮らせます。
1910年4月16日、客船ミネトンカ号でマイナー博士はアメリカへと旅立ち、アメリカでワシントンDCのセント・エリザベス病院に収容されます。
ファーニバルはこの年の7月に他界しました。
その五年後、1915年7月26日、マレー博士は志半ばで、胸膜炎で亡くなります。
OEDは彼の死後12年経った、1927年に完成します。
マイナーの妄想はセント・エリザベス病院で過ごすうちに徐々に悪化していき、 1918年11月に「妄想型早発性痴呆」と診断され、1920年3月26日、気管支炎で死去します。85歳でした。

映画のようにマレー博士が出版社と喧嘩し編纂主幹を辞めることはありませんし、マイナー博士のことが世間に知られても、スキャンダルにはなっていないようです。マレー博士はマイナー博士のためにチャーチルに会いに行っていません。
マイナーの側にいつもいた看守マンシーは実在しないみたいです。
フレデリック・ジェームズ・ファーニバルは実在する人で仲がよかったみたいですが、変わり者だったようで、一部の人によると「まったくの道化で愚か者であるばかりか、スキャンダルにまみれたきざな男で、まぬけでもあった」そうです。
意外ですわぁ。映画では策士なのにね。
映画は観ている人をあきさせないようにしないといけないので、色々な演出があるのは仕方がないのでしょうね。

長々と書いてしまいましたが、本は専門書ではないので、とても読みやすいです。
翻訳が今一かも…。
OEDの影にこういう偉大な2人がいたのです。
興味が持てたら是非読んでみてください。

「Fukushima 50」&『死の淵を見た男』2021/03/27

ネットで「Fukushima 50」が観られるということなので、観てみました。
その時に原作本があることがわかったので、映画を観た後に読みました。
映画では描かれていなかったことが、本を読むとわかります。
読んでから観るか、観てから読むか、どちらでもいいでしょう。
でも映画は観なくても、本は読んでもらいたいです。


「Fukushima 50」の意味がわかりませんでしたが、これは事故発生時に発電所内に最後まで残り続け、対応業務に従事した約50名の作業員たちのことを、海外メディァがこう称したそうです。


映画では門田隆将の『死の淵を見た男』を元に、福島第一原発事故が起こった時の現場の様子をリアルに克明に描いています。

福島第一原発は大地震が起こり、大津波が押し寄せ、全電源喪失したため注水不能に陥ります。
原発は最大6メートルの津波に対する備えをしていたのですが、実際は14m以上の津波が押し寄せてきたのです。
当直長と運転員たちは放射線量増加の中、水流のラインをつくるため、原子炉建屋に突入して手動で給水系のバルブを開けました。
外では陸上自衛隊から派遣してもらった消防車を使って、運転員たちが決死の覚悟でバルブを開けたラインから水を注入していました。
しかしこのままでは圧力容器の圧が上がりすぎて、格納容器爆発が起こります。そうさせないためには原子炉を冷やし続けた上で、ベントをおこなわなければなりません。しかしベントをおこなうと、中の蒸気を外へ逃がすことになるため放射能汚染がおこります。そのため住民を避難させなければなりませんでした。

本によりますと、福島第一原子力発電所所長の吉田所長を始め、運転員や他の職員、自衛隊などが最悪のシナリオを回避するために奮闘していた時、首相や経済産業大臣等に対して意見し、助言する立場である原子力安全委員会委員長の斑目も東電から窓口として送られてきた武藤も「情報の断絶状態」に置かれていたそうです。
そのため原子力の専門家である彼らが原発の状況について説明できないことに首相が苛立ち、現地に行くことにしたようです。門田によると、首相には東電への拭いがたい不信感があったそうです。
吉田所長がきちんと説明したので、菅は納得し、すぐに帰っていきました。
どうみても東電側に問題がありますよね。
映画ではここのところをちゃんと描いていないので、首相がただの空気を読めない、ヒステリックな奴になっていました、笑。
同じように、東電が撤退したいといってきたという報告があり、首相が東電本店のオペレーションルームで怒り狂い、「撤退はありえない、撤退すると東電はつぶれる」などとわめく場面がありました。どうみても首相はヒステリックかつエキセントリックな人で、ただ現場を混乱させているように見えますね。
その時、吉田所長は俺たちが撤退するはずないだろうと怒り、スボンを脱いでお尻を出していましたが(本当にしたらしいです)、この時も「伝言ゲーム」をやっていたせいで、伝達ミスがあったようですね。
東電本店からの情報伝達が遅くて、不正確だったことは確かだったようです。
そういえば、吉田所長と伊沢当直長は実際の人の名前ですが、菅直人首相はただの総理大臣、斑目は小市、武藤は竹丸と名前が変っていますが、何か意図があるのでしょうか?

ありえないと思ったのが、無事になんとか原発を制御出来た後に、伊沢が家族に会いに避難所に行き、謝る伊沢を周りの人たちが慰労し、拍手をしたことです。
避難させられた人たちが東電社員に対して恨みさえしても、原発で何をしているかわからない社員に、良くやったと拍手をするでしょうか?
実際は避難所ではなく、伊沢が住む小さな地区の住民40人あまりの会だったようです。映画のために作り過ぎちゃったのかしらね。
アメリカ軍の「トモダチ作戦」の描き方には笑っちゃいました。
あまりにもお粗末です。こんな描き方なら別に入れなくてもよかったんではないでしょうか。
危機を脱したところまでで終わるなら、感動的だったのにおしいと思いました。
後は蛇足ですね。(だから作品賞が取れなかったのかな、笑)
そうそう映画の主役が伊沢役の佐藤浩市だそうですが、私には吉田役の渡辺謙の方が主役に見えました。

事故当時、真実が知らされていなかったので、とんでもないことが起こっているということを私たちは知りませんでした。
福島にある放射性物質の量はチェルノブイリ四号炉の十倍以上で、格納容器が爆発していたら、避難対象が半径250㎞(東北と関東全部に相当)、人口3000万人が退避しなければならなかったのです。
近頃、制御できたのではなく、幾つかの偶然が重なって最悪の事態を回避できたと言われています。運がよかったとしか言えませんね。

映画を観て、現場で命を賭けて頑張ってくださった人たちには感謝の念で頭の下がる思いになりました。
戦前、福島原発のあるところに盤城陸軍飛行場があり、戦争末期には特攻の飛行訓練がおこなわれていたそうです。
現場で闘う人たちと特攻隊員の姿が重なります。

この事故は自然に対する人間の驕りや慢心から起こったように思います。
どんなに科学技術が進もうが、最近次々と起こる自然災害の状況をみてわかるように、人間は自然には太刀打ちできないのです。
何事も最悪のことを考え、備えなければなりません。その備えをきちんとしていなかったことから人災だとも言えますね。

本の中に1999年に起きた茨城県東海村での臨海事故の話が出てきたので、蛇足ながらお勧めの本を載せておきます。
NHK「東海村臨界事故」取材班 『朽ちていった命ー被爆治療83日間の記録ー』です。


是非、『死の淵を見た男』と一緒に読んでみてください。

明けましておめでとうございます、ワン♫2021/01/01

犬たちからの新年のご挨拶です。


「みなさん、今年もよろしくお願いいたします。
僕たちは今年もいっぱい遊び、食べ、元気にやっていきたいと思います。
2021年がいい年になるといいですね」 by 兄犬

兄が怖いので、兄の後ろで舌を出している弟です。
兄に袴を着せてみました。結構よい品物だったので、同じ店から弟用も買って、来年は弟にも着せることにしました。来年をお楽しみに(覚えていたら、笑)


兄用を着せてみました。弟は胸囲がないのでブカブカです。


後から考えると、首輪はない方がよかったですね。
手のかかる二匹ですが、今年も元気でいて欲しいです。

今年のおせちです。


横に長いので、こんな感じになってしまいました。肉類と魚介類で別れています。
お雑煮の餅は1個、食べたのですが、ちょっと胃にもたれています。

さて、恒例の(?)2020年に読んだ本や漫画の中から、よかったものを紹介しましょう。あまり記憶がないので、ブログをざっとみて選びました。
2020年に出版されたものではなく、あくまでも私が今年読んでよかったものです。

海外ミステリ:ヴィクター・メソス 『弁護士ダニエル・ローリンズ』
       ディーリア・オーエンズ 『ザリガニの鳴くところ』
日本ミステリ:横山秀夫 『ノースライト』
日本文学:伊吹有喜 『犬がいた季節』、寺地はるな 『水を縫う』
     乃南アサ 『チーム・オベリベリ』、澤田瞳子 『火定』
ノンフィクション:佐々涼子 『エンジェルフライト』
漫画:吉田秋生 『詩歌川百景』、ヤマシタトモコ 『違国日記』
   荒川三喜夫 『ピアノのムシ』、木村紺 『神戸在住』
   小池田マヤ 家政婦さんシリーズ&女と猫シリーズ
   常喜寝太郎 『着たい服がある」、榛野なな恵 『Papa told me』
         はた万次郎の犬漫画

漫画が多いですね、笑。漫画は日本が世界に誇るべき文化ですから(言い訳?)

ついでに映画では「顔たち、ところどころ」と「わたしはダニエル・ブレイク」、「人生フルーツ」かな?

昨年はコロナ一色の年でした。今年はどうなるのか…。
昨日、東京は感染判明者が千人を超しましたから、少なくとも前半は今年と同じような感じでしょうね。
はたしてオリンピックはできるのか?治療薬ができ、ワクチンは効くのか?
あまり期待はできないような気がしますけど…。
4月から仕事を始めようかと思っていましたが、まだまだコロナが収束しないので、今年も昨年同様のんびりしていようかと思っています。

皆様、くれぐれも感染しないように気をつけていきましょう。
今年もよろしくお願いいたします。

ドキュメンタリー「おかえり お母さん」&『いつか来る死』2020/11/30

ぼけますから、よろしくお願いいたします。」のその後を描いたのが、「おかえり お母さん その後の「ぼけますから、よろしくお願いいたします。」」です。

アルツハイマー型認知症になった信友直子さんのお母様は、2018年10月、食事中に脳梗塞で倒れました。
お父様は片道1時間かかる道を歩いて病院に通いました。
リハビリに励む妻を見て、自分が介護しようと思ったお父様は体力作りを始めます。
彼は98歳。それより若い私でさえ筋トレなんかやっていません(恥)。
その上、娘の直子さんが「一緒に介護しようか」と尋ねると、「働けるうちは働いていいよ。わしが介護します」と言うんです。

残念ながらお母様は脳梗塞を再発してしまいます。
寝たきりになる可能性がでてきたため、療養型の病院に移ることになり、その合間に家に一度連れ帰ります。
お母様は家に帰ったことがわかるのか、泣いていました。

お母様がまた病院に入院して、お父様は一人暮らしを続けます。
99歳になったというのに、お風呂の残り湯を使い洗濯物を手で洗っています。
腰が曲がっていますが、身体は丈夫なのですね。
なんで全自動洗濯機を買ってあげないのかと、また思ってしまいました。
洗濯機の置く場所がないからかしら?

今年の3月から病院は面会禁止になり、その頃からお母様は少しずつ弱っていきました。亡くなる間近に面会が許され、お父様は毎日お母様の手を握り続けました。
6月、お母様はお亡くなりになりました。91歳でした。
私には羨ましい最期でした。

11月にお父様は百歳になり、市長からお祝い金をもらい、とっても嬉しそうにしています。120歳までは生きるそうです。

本当にお父様はすごい人です。百歳になってもしっかりしています。
120歳と言わず、もっと長生きしてください。
お父様にエールを送りたくなるドキュメンタリーでした。



小堀鴎一郎さんは映画「人生をしまう時間」に出ていた医師です。
糸井さんとの対談が主な本です。
表紙の写真は小堀さんの家の庭のようです。彼の両親(鴎外の娘・小堀杏奴と画家の小堀四郎)の家の跡に家を建てたそうです。
出てくる写真は彼の家で写したそうで、鬱蒼とした木々の生えた広大な敷地のように思えます。家を維持していくために仕事を続けていると言っていますが、冗談ではなく本当なんでしょうね。

糸井さんも若いと思っていたら、もう72歳だそうで、そろそろ死を考えるお年頃ですね。だからこの本を作ったのでしょうね。
彼は性格でしょうか、明るいお葬式を考えています。それだけ人との繋がりを大事にしてきたのでしょうね。
彼の楽観的な死生観と小堀さんの理性的な死生観とが混ざり合って、重すぎない死を語る本になっています。

本の中の心に残った言葉。

「ちゃんと生きてない人は、ちゃんと死ねないんですよ」
「人は生きてきたようにしか死ねませんからね」

「「死に目に会えないのは親不孝者」といった考えは思考停止の一つです」

「本人の希望を叶えても、叶えられなくても、残された家族は何かしら後悔するんです。ああしてあげればよかった、こうしてあげればよかった、と思い続ける。それは仕方のないことで、時間をかけて納得していくしかないんでしょうね」

これらはすべて小堀さんの言葉です。
在宅医療医として400人以上を看取ってきた82歳の人の言葉は、厳しさと優しさのあるものだと思います。

「幸せなひとりぼっち」を観る2020/11/11

本屋大賞・2020年ノンフィクション本大賞は佐々涼子さんの『エンド・オブ・ライフ』に決まりました。
在宅医療についての本ですので、興味のある方は是非読んでみてください。



スエーデン映画。
原題が「オーヴェという男」で、ベストセラーの本を映画化したようです。
ポスターは英語版の方が好きです。
主人公のオーヴェの雰囲気出てますもの。
(ネタバレあり)

オーヴェは59歳。最愛の妻を亡くし、43年間働いてきた会社を首になり、生きていても仕方ないと思い自殺しようと思います。
首を吊ろうとした時に、前の道に車が入って来るのが見え、見に行くと、前の家に引越してきた家族でした。
上手く駐車できないようなので、運転を代わってあげます。

次の日の朝、駐車禁止の張り紙を貼ってから、いつものようにパトロールに行くオーヴェ。ガレージの戸締まりを点検し、ゴミの分別をチェックし、違反した車のナンバーを控え、外に出ていた自転車をしまい、砂場のおもちゃを片付け・・・。
ルールを守らないことが許せないのですね。
こんなおじいさん、いいえ59歳なのでおじさん(?)かしら、周りにいたら私なんか絶対に話しかけないわ。それでもみんな話しかけるのは何故でしょう?
奥さんが亡くなって間もないので、気にしてくれているのかもしれませんね。

再度、首を吊ろうと、ロープを首にかけたところ・・・今度はチャイムが。
前の家の子供がお礼にペルシャ料理を持って来てくれ、ついでにはしごを貸してくれと言います。
気分を変えて、再度トライすると、今度はロープが切れてしまいます。
その後どうしたかというと、わざわざ店までロープの耐久性の文句を言いに行きます。切れても仕方ないような細いロープですけど。もっと太いのを買いましょうね、笑。

今度はどうするのかと思ったら、昔の親友で今は半身不随になっているルネの家に行って貸していたホースを返してもらいます。
この二人、何やら因縁がありそうです。
ルネの奥さんはオーヴェと仲直りをしようとして、ランチに誘うのですが、オーヴェは頑として受け付けません。
ホースを使うと言えば、そうです、車の排気ガスを使うのです。
意識を無くし、昔のことを思い返していると、ガレージを叩く音に起こされます。前の家の夫がはしごから落ちたというのです。
妊娠しているイラン人の妻・パルヴァネは車の運転ができないので、オーヴェが彼女と子どもたちを病院まで連れて行くことになってしまいます。
パルヴァネが医師と話す間、オーヴェはこどもたちの面倒をみますが、警備員に危険人物と見なされ、病院から追い出されてしまいます。
オーヴェってくそ真面目な要領の悪い人ね。

次の日、駅でオーヴェはプラットホームから飛び降りようとしますが、彼より先に側にいた男が倒れて線路に落ちてしまいます。
その人を助けに線路に降り、ちょうど電車が来たのでそのまま線路にいようかと思ったのですが、子供が彼を見ているのに気付き、思いとどまります。
子供に見せたらトラウマになっちゃうもの。

そんなわけで、何回も自殺未遂を繰り返し、いい加減にしろよと思ったところに、パルヴァネが現れ、運転を教えて欲しいと頼んできます。
本当は嬉しいのに最初は断りますが、他の奴が教えているのが気にくわなくて、結局は運転を教えることにします。
なかなか一筋縄ではいかないですね(笑)。
パルヴァネと彼女のこどもたちと接するうちに、段々とオーヴェは変わっていきます。
彼はもともと心優しい人なのですが、それを表現できない不器用な人なのです。
たぶん奥さんはそれを知っていたのでしょうね。それでなければ彼のような人と長年一緒に暮らせないでしょう。私だったらサッサと逃げ出しますわ。

自殺を諦めたかと思ったら、今度は銃を持ち出します。
でも、またチャイムが。
今度は妻の教え子が友達のミルサドを泊めてくれないかと言ってきたのです。
ソーニャ先生なら泊めてくれると言われ、仕方なく泊めてあげます。
妻は彼にとって絶対的な存在なのですね。

次の日の朝、ルネが家族の意思に反して介護施設に連れて行かれると聞きます。
オーヴェはルネのために介護施設の不正を暴き、他の住民達と共に職員を追い帰します。
これでルネとオーヴェは仲直りできました。

自殺はできなくても、今度は身体が危険信号を出しました。
オーヴェは道で倒れてしまったのです。
医師は命に別状はない、心臓が大きすぎるだけと言い、それを聞いたパルヴァネは「本当に死ぬのがヘタクソね」と大笑い。
しかし笑っているうちに産気づいてしまいます。

パルヴァネも無事に出産をし、オーヴェも落ち着いたかという時、朝の8時なのに、オーヴェの家の前は雪かきがされていません。
パルヴァネは大急ぎでオーヴェの家に行きますが・・・。

人生って思い通りにはいかないものですね。
オーヴェの性格がこうなってしまったのも、どうしようもないなという感じです。
唯一の心のよりどころが妻のソーニャだったのね。
お墓で愚痴ったり、寝たり・・・死んでも奥さん大変そうです(笑)。
福祉国家であるスエーデンは一見よさそうなのですが、是正すべきところもあるのも仕方ないかなと思いました。

とにかくオーヴェ役の人、役にピッタリです。
頑固で偏屈、不器用、意固地、意地っ張り・・・でも寂しがり屋な感じが出ていました。

ブレイディみかこ 『THIS IS JAPAN 英国保育士が見た日本』2020/10/23



2016年2月、20年ぶりに一ヶ月、日本に滞在することになったみかこさんは、日本人が見ていない、いえ目に入れようとしない「ブロークン・ジャパン」の状態を草の根の活動家たちに会って記録しておこうと思いました。
本にはイギリスの状況も書いてありますが、ここではできるだけみかこさんの見た日本の状況のみ書いて行こうと思います。(詳しくは本を読んでね)

最初に訪れた場所は上野。そこで争議に行きます。
キャバクラユニオンのメンバーたちがあるキャバクラに行き、賃金未払いについて話し合うために責任者に会おうとするのですが会えません。
キャバクラから外に出ると、そこには黒服軍団がいて、ユニオンのメンバーたちに罵詈雑言を浴びせます。

みかこさんは水商売で荒稼ぎをしてイギリス留学の資金を貯めたそうです。
私が20代で新宿の歌舞伎町に行った時、「お姉ちゃん、働かない。100万円」と声をかけられたことがあります。(一日、100万?一ヶ月、100万よね、と胸算用していました、笑)
その時、水商売ってお金が儲かるんだと思い、ずっとそう思っていました。
しかし、それも過去のことなのだそうです。
キャバ嬢たちの給料が例えば時給3000円とか言っていても、厚生費や雑費という名目(ティッシュペーパー代やボールペン代、おしぼり代とかもあるんですって)で給料から引かれていたり、遅刻や欠勤をすると罰金が取られたりします。
そのため引かれた後の手取りは最低賃金を割っていることもあるとか。
その上、キャバクラによっては精神的虐待があり、すべて自己責任、「私が悪い」と思い込まされたり、暴力的に管理されていたりするようです。
キャバクラのキャストは労働者ピラミッドの底辺、キャッチはそれより上の存在だそうです。そのためかキャッチ達は団結してユニオンと闘っているそうです。
普通に考えたら、キャストやキャッチは同じ労働者。団結して雇用者と闘うのが筋なのにねぇ。
みかこさんは思います。「労働運動が健やかに広がり、逞しく進化しなかった社会では、労働者のプライドは育たないだろう」と。

『下流老人』という本を書いている藤田孝典は「日本には下層意識が根付かない」と言っています。
1970年代から日本人には中流意識がありました。いいえ、未だに日本人の9割が中流意識を持っているそうです。
今や子供の6人に1人が貧困と言われているのに、おかしいですね。
若者たちは貧困という現実に向き合うと終わっちゃうから、「考えたくない」のだそうです。
自分のことを労働問題として考えることを嫌がるのだそうです。
非正規でも仕事があるよ、生涯アルバイトさえあればいい、結婚とか子供をつくるとかはエリートのすること、などと思っているとか。
結婚や子供を作ることは普通のことではないですかぁ。
藤田さんによると、「現在の若者はまるで監獄に入れられている奴隷のようです。それなのにそのことに気づいていない。気づいていないからより深刻」なのだそうです。
日本政府も「抽象論を展開しておいて、暮らし自体を見させない」ということをしているそうです。
日本はお金の話、すなわち経済を劣ったもののように見なす傾向があるため、労働問題に経済が持ち込まれていないのです。
すなわち「地べたのミクロを政治のマクロに持ち込め」ていないんですね。
みかこさん曰く、「経済にデモクラシーを」。

保育士であるみかこさんは世田谷区の保育施設を見に行きます。
彼女を案内してくれたジャーナリストの方が「子供を産まないのは、日本の女のテロなのよ!」と言ったそうですが、産まないというより、諸事情で産めないというのが実情ですよね。

日本と英国の園児と保育士の比率を見ていくと、3歳児以降の違いに驚きます。
英国は3歳児と4歳児は8人に1人なのに、日本は2歳児6人に1人から一気に3歳児20人に1人、4歳児以降30人に1人になるのです。
あんなに動き回る子が20人、30人も・・・私は保育士にはなれませんわぁ。
どうやって1人で20~30人を見ていられるのかというと、「保育士は積極的に子供と何かするのではなく、何事も起こらないように全体を監視する」ようにしているからとか。
私は幼稚園しか知らないのですが、保育所もそうなんですか。
みかこさんはイギリスの保育士なので、こう言っています。
日本のような保育ではアドベンチャーをさせられない。そのため失敗したり成功したりという経験の積み重ねができず、決断力が育たない。
あわせて他人と違うことをやってみたいということからクリエイティビティは育つので、日本のような保育では想像力も育たない。
日本の保育の良いところは給食だそうです(笑)。
英国の保育所にも日本の保育所にも共通するのは緊縮財政で、牛乳パックを色々なことに再利用したり、おむつなどを家庭に持ち帰らしたりしている日本は最前線を行っている・・・かな?

何故世田谷区の保育施設を見に行ったのか、疑問をもった方もいるでしょう。
たまたまなんでしょうが、実は世田谷区は日本の待機児童ワースト区です。(2019年ワースト一位、2020年2月では世田谷区ワースト二位)
産後ケアセンターとかプレイパークなど子供の施策が充実していて子供応援都市を宣言しているそうですが。

英国では保育園、託児所、チャイルドマインダー、ベビーシッターなど子供を預かる仕事をしている人はすべてOFSTED(Office for Standards in Education英国教育水準局)への登録が義務づけられているそうです。
保育施設もすべて当局に登録・認可される必要があり、認可された後もOFSTEDの職員が定期的に監査を行うようです。
日本の保育施設は誰が監査を行っているのでしょうか?

「日本で一番進んでいる草の根は障害者運動」であると企業組合あうんの中村光男は言います。
障害者運動は当事者運動であり、労働を自分たちの運動のなかに取り込んで発展していったそうです。
中村さんは障害者運動の発展に刺激を受けながら、山谷で「当事者一人ひとりがもう一度自分の人生を取り戻す」、そして「仲間自身が仲間を守る」という発想で活動を進めていきます。
NPOは出資や投資が禁止されていて、経済的自立ができないので、事業体として「あうん」を立ち上げます。
反貧困ネットワークにも参加しますが、この運動の問題点は当事者が参加していないため、垣根を越えられない、学び合えない、そのため繋がれないという結果になっているそうです。

「日本の貧困問題を社会的に解決する」というミッション(HPによる)のもと、活動を続けているもやい事務所のボランティア志望者セミナーにもみかこさんは参加します。
彼女が驚いたのは、「人権って何ですか?」という質問が出たことです。
英国では人権は普通に生活のなかにあるものなので、こういう質問はされないそうです。
気になったみかこさんが日本の小学校で人権はどう教えられているのか調べてみると、貧困をつくりだす政治や経済システムも人権課題であるのに、人権教育の指導内容に「貧困問題」がなかったそうです。

みかこさんの思った日本と英国の違い。
日本では「権利と義務はセット」で「国民は義務を果たしてこそ権利を得る」。
つまり「アフォード(税金を支払う能力がある)できなければ、権利は要求してはならず、そんなことをする人間は恥知らずだと判断される」。
英国では「「権利」といえば普通は国民の側にあるものを指し、「義務」は国家が持つ」。人権は誰にでも普遍的に与えられているものと考えている。

日本社会を変えるためには、人権についての考え方を変えるところからやらなければならないようですね。

「人権というのは、アフォードする力(日本流「人間の尊厳」)も、コミュニケーション力(相互扶助スキル)も、すげての力を人間が失ってしまったときにそこにあってわたしたちをまるごと受け止めてくれるものなのだ」

日本に住んでいても見えない(見ようとしない?)日本の貧困の一部を見させてもらい、色々と考えさせられる本でした。
イギリスについての記述はケン・ローチ監督の映画を見る参考になりますので、映画を観る前でも後でもいいので、興味がありましたら読んでみてください。

佐々涼子 『駆け込み寺の男ー玄秀盛ー』2020/08/28



佐々さんの出生作。
ひょっとしたら、テレビのドキュメンタリーで駆け込み寺のことをやっていたのではないかしら?見たような・・・。
私の記憶違いかもしれませんが、同じような場所が他にはないですよね。

新宿歌舞伎町と言えば、女性が一人で歩くには勇気のいる場所(私だけ?)のような感じでしたが、今はそうでもないのかしら?
大学生の時に一人で歩いていたら、私でもスカウトマンに声を掛けられました。
未だになんか猥雑な怖い町って感じです。(変な本の読み過ぎかも)
この歌舞伎町に「日本駆け込み寺」があります。
「日本駆け込み寺」はDV、虐待、借金、ストーカーなどの深刻な問題を抱える人が最後に助けを求めて駆け込み場所です。
その代表が玄秀盛です。(今は理事になったようです)
佐々さんは初めて本を書く対象として玄を選んだのです。

玄は不幸な少年時代を過ごしています。
彼の父親は韓国の済州島からの密入国者で、外人登録も住民票も持っていませんでした。母親は在日韓国人の娘で、弦が物心つく頃には二人は別居していました。
彼らにとって玄はいらない子。
5歳になってやっと出生届が出され、互いに面倒を見るのが嫌で玄を押しつけ合っていました。
母は男出入りが激しく、父には方々に女がいました。
どちらの家にいっても世話をしてくれる人はいません。
小さい時から腹いっぱい食べたことがありません。
小学校1、2年生の頃から万引きをします。「盗まなければ死んでしまう」のですから。小学校4年からは新聞配達をしています。
家では毎日の暴力は当たり前、普通のことでした。
こんな家から出て自由になることが彼の望みでした。

学校も彼にとっては心安まる場所ではありませんでした。
言葉は聞き流しますが、暴力は別です。
大勢で囲まれた時は大人しく殴られていますが、彼らが一人になった時、家の前で待ち伏せし反撃します。
普通の子にとって自分を出せ、守られるはずの家は、玄には彼らの弱みに見えるのです。

こういう悲惨な少年時代を過ごした玄は17歳で盗みは止め、様々な職業を経てから人夫だしをやり、「銭ゲバ」の世界へと入っていきます。
武勇伝(本で読んでね)は色々とあり、エグい金儲けをしていますが、何故金儲けを止め、人助けの道へと入っていったのでしょうか。
きっかけとなるのは、血液検査です。
検査でHTLV-1(レトロウイルス)感染がわかり、いつ発症するかわからない時限爆弾を抱えるていることがわかったからです。
彼がすごいのは、駆け込み寺をするために彼が持っているすべてのものを手放したということです。
なかなかできないことです。
もともと持っている人は持っているものを手放せなく、そのことが弱みになります。
もともと持っていなかった彼にとって、手放すことはなんてことのないこと。
これが彼の強みです。

人を救うということは、普通の人にはできません。
その人の人生をそのまま引き受けるということですから。
彼に比べれば、自分がいかにちっぽけな存在かがわかります。
悩みも、彼曰く「鼻くそ」のような悩み。その通りです。
玄の心の闇に比べれば、どんな人の悩みも鼻くそにもならないかも(笑)。

本の中で気になったのは佐々さんが書いている、「この国(日本)は一度失敗した人間にはきわめて不寛容で冷たい」です。

「心の成熟よりも、優秀な労働者になることを重視され、人間が過度に均質化されたこの国では、一度イメージが「穢れて」しまえば、規格外とされて疎まれ、仕事を探すことも、地域で暮らすことも、非常な困難になる」

日本の均質化がいい方向へ向かえばいいのですが、コロナ禍の今、これが人の排除へと向かっているような感じがします。
人に対する不寛容さが攻撃的になっていかなければいいのですが。

2019年6月頃の新聞記事によると、「日本駆け込み寺」は資金難で出資者を募集していると書いてありました。
HPを見るとクラウドファンディングをしていますが、なかなか資金が集まっていないようです。
「日本駆け込み寺」以外にも受刑者が働く居酒屋(餃子屋?)などを経営していたので、そちらの方で借金がかさんだのでしょうか。
いいスポンサーが現れるといいのですが。

玄という男を追い切れていないという所もありますが、佐々さんの初々しい処女作です。
もしあなたに悩みがあったら、読んでみるといいでしょう。
そして自分の悩みが「鼻くそ」に過ぎないと思えたらいいですね。


5ヶ月ぶりのテイクアウトです。


夫がケンタッキーフライドチキンを買ってきました。
お腹が空いていたので、2本食べてしまった後です(笑)。
久しぶりのフライドチキンは美味しかったです。

佐々涼子 『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』2020/08/23

あなたの家族が海外で不慮の事故で亡くなったら、遺体はどうなるのか考えたことがありますか?
ニュースで海外から遺体が搬送されて、空港に柩が帰ってくる場面を見たことがありませんか。
私は大使館の人が色々と手配をして、遺体搬送をしているのだろうと思っていました。
実は遺体搬送を生業とする業者があるのです。
その先駆けとなったのが、エアハースト・インターナッショナル株式会社です。


エアハースト・インターナショナル株式会社は国際霊柩送還の専門会社として2003年に日本で最初に設立された会社です。
この会社が出来る前は葬儀社の業務のひとつとして扱われていたそうです。
彼らの仕事は海外で亡くなった日本人の遺体や遺骨を日本に搬送し、日本で亡くなった外国人の遺体や遺骨を祖国へ送り届けることで、引き渡す前に、生前の姿に近づけるように修復もしています。

遺体搬送で思いもかけないことが起こるんですね。知りませんでした。
気圧の関係で体液漏れがあるので、遺体にトイレットペーパーが詰め込まれていた。
エンバーミングを施されなかったために遺体が悲惨な状態で納められていた。
反対にいい加減なエンバーミングが施されていたため遺体が腐敗していた。
遺体の腹部から臓器が抜かれていた。
柩を開けると見知らぬ外国人が納められていた。
葬儀社が勝手に遺体をもっていって、大金を請求してきた。
・・・こういうことはなかなか知られていないことですよね。
どこにでも悪質な業者は存在するんです。
海外だったらなおどの業者がいいかなんてわかりませんもの。
ニュースになるような大きな事故や事件ならこんなことはないのでしょうが、一個人のことでは大使館は当てにならないのですねぇ。

読んでいてすごいと思ったのが、社長の木村利惠さんです。
彼女は遺族の気持ちを考え、遺族に寄り添い、自分に何ができるかを常に考えています。
死亡した原因が違うように、遺族も違い、何が必要なのかもそれぞれ違うからです。
彼女はマニュアルに従うのではなく、頭を働かせて遺族の心を推し量ります。
こういう彼女の仕事に対する姿勢には頭が下がります。
彼女が心を込めて遺体を大切に扱ってくれたからこそ彼女が関わった家族の方々は感謝するのです。
でも感謝した後は忘れられると聞き、ちょっと悲しくなりました。
いつまでも悲しんでばかりいられませんから、悲しい思い出に繋がることは忘れられた方がいいのですが。まあ、仕事だから仕方ないのでしょうけど。
こういう彼女の会社ですから、ないことを祈りますが、もし自分の家族が海外で不幸にあったら、是非頼みたいですわ。

実はこの本を読んでいて、思い出した人がいます。
元同僚の年上の女性です。
彼女は性格的に難があり、仕事上で人と揉めることが多かったので、周りは関わりを持たないようにしていました。
私は仕事上他の人たちよりも彼女と話すことが多かったのですが、色々とあり、彼女が退職する頃には疎遠になり、今はどこで何をしているのか知りません。
彼女は第二次世界大戦で父親を亡くしています。
その時、彼女は母親のお腹の中にいたので、父親の顔を見たことがありませんでした。(母親も彼女が十代の頃に亡くなったそうです)
彼女は父親のことを知りたいと思い、色々なつてを辿り、調べていました。
父親のことを知るということが彼女のライフワークであり、天涯孤独の彼女にとって、生きる糧でもあったのです。
「父親と同じ隊にいた人と今度会うのよ」と嬉しそうに私に話していた彼女の顔が浮かんできました。
戦争当時のことですからお骨は帰って来ていないでしょう。
本の中の遺体と向き合うということは、亡くなった人と「最後にたった一度の「さよなら」を言う」ことだという言葉が、私に彼女を思い出させたのです。
彼女はこの「さよなら」が言えなかったため、家族を持たず、人生をかけて父親を探していたのですね。
今になって彼女の気持ちが少しわかりました。

この本は2012年に第10回開高健ノンフィクション賞を受賞した作品だそうです。
著者の強い思いが込められた本で、この思いが『エンド・オブ・ライフ』に続いているようです。


佐々涼子 『エンド・オブ・ライフ』2020/08/22

この本も本屋大賞・ノンフィクション本大賞の候補作です。


この本では、訪問看護師・森山文則に2018年8月、すい臓がんを原発とする肺転移が見つかってから亡くなるまでをメインにし、著者自身の経験と森山が務めていた京都の訪問医療を行う渡辺西賀茂診療所で、2013年からの7年間に最期を迎えた人たちの話が描かれています。

病院ではなく家で最期を迎えたいと誰もが願うのではないでしょうか。
しかし様々な制約があり、たいていの人は諦めて病院で最期を迎えることが多いように思います。
私の親もそうでした。
父親は多発性骨髄腫で8年間入退院を繰り返し、最期は病院で亡くなりました。
まだ意識があった時に、「なんでこんなになっちゃったんだろう」と嘆いていました。
多発性骨髄腫は進むと骨が脆くなる病気なので、在宅で看るといっても難しいのではないかと思います。
母親は急性心筋梗塞でしたので、寝込まず、あっという間もなく亡くなってしまいました。
父の場合は亡くなった時にそれほどショックは受けませんでした。
闘病生活が長かったので、別れる時の準備が整っていたからです。
母の場合は本当に亡くなったの、という感じで、離れて暮らしていたので、尚更、まだ生きているような気がしています。
人には死を受容するための時間が必要ですね。

佐々さんのおじいさんやお母様の話を読むと、羨ましいなぁと思いました。
お母様はお父様に愛され、幸せでしたね。
お父様は難病にかかり、ロックイン症候群になってしまったお母様を最期まで介護していたそうです。それも完璧に。
私なんか性格が悪いですから、お父様のエゴのために生かされ続けていたんじゃないのと思ってしまいます。
私だったら、ロックイン症候群になるくらいなら死にたいと思うと思います。
佐々さんのお母様はそう思ったとしても、お父様のために生き続ける道を選んだでしょうね。

渡辺西賀茂診療所で働く人たちは訪問医療のモデルになるような方々です。
彼らは余命少ない患者のためだけを考え、時間とかお金とか責任とかは考えずに行動に移してくれます。
患者が最期にどうしてもやりたいこと、例えば、家族とディズニーランドに行くとか、潮干狩りに行くとか、をやらせてくれるのです。
こんなことをしてくれる診療所など、どこを探してもほぼないと思います。

この本に出てきた人たちのような最期を在宅で迎えるにはどうしたらいいのでしょうか。

「いい医者に出会うか、出会わないかが、患者の幸福を左右しますね」
「主治医がどれだけ人間的であるかが、患者の運命を変えてしまうんですよ」
「いい死に方をするには、きちんとした医療知識を身につけた、いい医師に巡りあうことですね」

これらは渡辺西賀茂診療所で働く医師たちが言った言葉です。
在宅医療は医師の裁量が大きいそうです。
自分の望むような在宅医療をおこなってくれる、いい医師を探すのは難しいんではないでしょうか。
第一我々患者に医師が「きちんとした医療知識」を持っているかどうか、わかりませんものね。

「出会う、出会わないも、縁のもの」

こう思って達観してしまうしかないのでしょうね。
どうしても納得した死に方をしたかったら、渡辺西賀茂診療所がある京都に住んじゃうという手がありますが(笑)。

佐々さんの書く物に興味を持ったので、しばらく読み進んでいこうと思います。