山崎光夫 『鴎外青春診療録控 千住に吹く風』2021/09/27



鴎外と言えば、陸軍軍医総監までなった子煩悩な文豪で、順風満帆な人生を送った人と思っていました。
しかし彼にも将来を憂える時があったのです。
明治14年(1881)7月に医学部を卒業してから12月に陸軍に出仕するまでの短いモラトリアム時代を描いたのが、この作品です。

まず、林太郎の父、静男がどんな人だったか、簡単に紹介しましょう。
静男は大庄屋の5男として生まれ、医学を志し、津和野藩医の森白仙に師事。跡継ぎのいなかった白仙に見込まれ、長女の峰子と結婚し、森家を継承します。
子は林太郎の他に次男の篤次郎(後の医師で劇評家の三木竹二)と長女の喜美子(後の翻訳家・随筆家の小金井喜美子)、三男の潤三郎(考証学者)がいます。
藩の御殿医を務め、維新後、上京し、千住に橘井堂医院を開業します。

林太郎は幼い頃から利発だったため将来を嘱望されていました。12歳で年を2歳偽り、第一大学区医学校・東京医学校(現東京大学医学部)予科に入学し、19歳で卒業します。
文部省派遣留学生としてドイツに留学することを望んでいましたが、卒業時の成績が28人中8番であったため、留学の望みが絶たれます。というのも官費で留学できるのは2番までだったからです。
留学の望みを捨てきれず、他の方法で留学できないかと方策を考えながら、林太郎は橘井堂医院を手伝っていました。

父の診療所を手伝って林太郎が知ったのは「静男の医療活動の根本にある気高い志」でした。
静男は「ごくありふれた症例の患者でも、また逆にきわめて難しい病状の患者でも、まったく分け隔てなく常に全身全霊で向き合って」います。
医師として彼こそ理想の姿であったことでしょう。
しかし林太郎はそれだけでは満足できなかったのです。
あくまでも留学がしたかったのです。
親戚の西周も友人たちも林太郎に陸軍に入ることを勧めます。父も口に出して言いはしませんが、それを望んでいるようです…。

様々な市井の患者と接した林太郎が実際にどのような思いを抱いたのかはわかりませんが、彼の意外な一面が垣間見られ、面白かったです。

2022年は森鴎外没後百年、生誕百六十年だそうです。