近衛文麿旧邸「荻外荘」に行く2025/07/21

暑くなりそうなので、午前中に動くことにし、人のあまりいなさそうな所に行ってみることにしました。
電車で荻窪まで行き、歩いて「荻外荘(てきがいそう)」まで行きました。
Googleでは駅から12分だそうです。


パンフレットによると、荻外荘は、東京帝国大学医学部教授にして大正天皇の侍医頭(じいのかみ)も務めた医学者・入澤達吉の別邸として、義弟の建築家・伊東忠太が設計して昭和2年(1927年)に建てられ、昭和12年(1937年)に政治家・近衛文麿に譲られました。
「荻外荘」という名は近衛の後見人・西園寺公望が命名したそうです。
ここで1940年7月に荻窪会談、1941年に10月に荻外荘会談が行われ、12月に太平洋戦争が開戦します。
1945年の敗戦後、12月に近衛文麿は荻外荘の書斎で自決します。
その後、1947~48年まで吉田茂が仮住まいをしていたそうです。
杉並区が、1940(昭和15)~41(昭和16)年を復原の時点として、2022年から二年半をかけて復原整備しました。


建物の横に出入口があり、受付で一般300円を払い中に入ります。
左にいくと、応接室と玄関があります。


意外と地味な玄関です。


玄関を入ってすぐのところに中国風の応接室があります。


天井に4枚の龍の絵が描かれています。


誰の書でしょうか。近衛公爵までは読めるのですが、ひょっとして文麿の書でしょうか。
床に龍の敷瓦があったらしいのですが、上ばかり見ていて、気づきませんでした(恥)。写真を拡大してみると龍の敷瓦がありましたわw。


応接室を出たところに西園寺公望の筆跡による扉額が掛けられています。
この左に尚武太鼓があります。


荻窪会談当日の正午に、日本太鼓工業会から送られ、荻外荘に集まっている報道陣を集めるために打ち鳴らされたそうです。


応接室の横に来客用の手洗いがあります。
同時代の洋式トイレを参考にして復原されたそうです。
出入口の方に戻り、左に曲がると、荻窪会談が行われた客間があります。


当時の写真。左から近衛文麿次期総理、松岡洋右次期外相、吉田善吾海相、東条英機次期陸相。


古写真から復原された客間。壁紙が気になります。


広縁から荻外荘公園が見えます。


次ノ間の扉に近衛家の家紋、近衛牡丹が彫られた扉があります。
奥に行くと、食堂と書斎。


ここでガイダンス映像が見られます。


文麿が使用していたクライスラーインペリアル1937の模型。


近衛文麿の肖像画。


書斎。


右奥にある棚のような物はなんでしょう。


出入り口に戻り、正面にある茶の間。
茶室にもなるように炉が切ってあります。


角を曲がり左に行くと、居間。


居間の奥に行くと、反対側から書斎が見られます。
ここは近衛が54歳で自決した当時のままで残されているそうです。


蔵の中に、近衛文麿着用有爵者大礼服の複製がありました。
この写真ではわかりませんが襟と袖が紫色で、公爵の色だそうです。
文麿は身長が180㎝以上あったらしいです。
ちなみに彼は第79代総理大臣の細川護熙の祖父です。細川護熙は176cmですって。祖父に負けてます。


昭和13年に文麿の長男・文隆名義で増築された別棟の和室。


二つ目の和室。暖炉(?)みたいなものがありますが、煙突がないので、使っていないのかな。
肖像画は文隆ですか。


和室から見た庭。椅子があるので、座って見ることができます。
ガイドツアーがないかと聞くと、ボランティアの人がいればガイドをしてくれるそうです。

貴族のお屋敷だから、大きいものを想像していましたが、意外とこじんまりとしています。もともと別邸だったからこんなものなのでしょうね。


東門から出たところに隅研吾が設計した、カフェとショップのある展示棟があります。
カフェで休もうと思ったのですが、意外と小さくて、6つぐらいしかテーブルがなくて、全部埋まっていました。
10時開店なので、その頃に来たら待たなくてもいいかも。
平日なら空いているかもしれませんね。


荻外荘公園(芝生広場)から見た荻外荘。井戸があり、使えるようです。
暑くなければ、ここに座ってのんびりしたいですね。

暑くて喉が渇いたので、荻窪駅近くのコメダ珈琲店に入りました。
昔に比べてすべてが小さくなっているような・・・。

荻窪にはここ以外に大田黒公園角川庭園があります。
この三つは「荻窪三庭園」といい、三つとも歩いて回れますので、涼しくなったら挑戦してみてください。