いじめへの取組み2006/11/26

いじめによる自殺が増えています。マスコミの影響が少なからずあることは確かだと思います。
いじめが問題になってきたのは、校内暴力が問題になってからだと思います。
何故校内暴力が増えたのかわかりませんが、外に出ていたものが、内にこもるようになり、陰湿ないじめになっていったようです。
何十年も前の自分の小学校、中学校時代を振り返ってみると、あれはひょっとすると今ではいじめと見なされるのかな、と思えることがあります。
男の子たちが、みんなで一人の子にプロレスの技をかけて、毎日遊んでいたのです。
かけられていた子は、どちらかといえば小柄な子でした。
でも「いじめ」という概念がなかったため、みんなかわいそうにとは思っても、それ以上は考えませんでした。

オーストラリアの小学校のいじめに対する取組についてのTV番組を見ました。
学校はいじめはいつでもあるというスタンスでいます。
学校中に「この学校ではいじめは許しません」というポスターが貼ってあります。
生徒は「いじめを黙認しない」「いじめを見たら先生に話す」「いじめをしない」という誓約書を書かされるそうです。

授業ではロールプレイイングを取り入れ、いじめられる子の役をして「どう感じたか、いじめとはなにか」を感じさせ、意見を言い話し合います。
休み時間には教師が遊んでいる生徒を見ていて、ノートに記録し、少しでもいじめに繋がりそうな行為があると、すぐに注意します。
その時に誰とも遊ばない生徒をチェックしているそうです。

息子がいじめられているらしいと、親から話があった場合は、その日のうちにいじめをしている子たちと面接をします。
その面接は何回も行われ、いじめを受けるとどういうふうになるかを言い続けるそうです。
番組に出てきた例では、1週間でいじめはなくなったそうです。

最後に校長が言った言葉を、日本の教育委員会と校長達に噛みしめてもらいたいと思います。
「いじめはあります。いじめはあるが、対策を取っているという学校はいいのですが、「いじめはない」という方がおかしいのではないでしょうか。」

もうひとつの番組は、日本の教師たちの取組です。
定年退職した教師が、現役の教師を対象とした勉強会を主催しています。
そこではいじめに対する取組が話し合われています。
「いじめは見ようとしなければ、見られない」という言葉が出てきました。
いじめはありません、という報告をしている学校は見ていないか、見て見ぬふりをしているのでしょう。
最後に主催者の元教師はこう言いました。
いじめはなくならない、だからこそ取り組まなければならないし、取組方を知っているかどうかで、教師のプロ性が問われるのですと。
現場でいじめと取り組んでいた教師の重い言葉です。

最後に、ある雑誌に載っていたエッセイを紹介します。
ある人が町で、小学生の男の子達が歩いているのを見ました。
その中の1人がみんなの鞄を持って歩いていました。
あ~ぁ、じゃんけんをして、負けた子が鞄を持つという遊びをやっているな、とその人は思ったそうです。
ところが、それを見た老人が、「君たち、いじめは止めなさい」と怒鳴ったそうです。
楽しそうにしていた子ども達は、シュンとしてしまいましたが、鞄を持っている子が次のようなことを言いました。
「おじさん、僕がやろうといってじゃんけんをしたんだ。僕が負けてしまったから、鞄をもっているんだ。みんなは悪くはない。」
老人は、そういうことかと納得したそうです。
子どもは遊びを考える天才です。それが遊びでとどまっている間はいいのですが、どこから「いじめ」に繋がっていくのか、その見極めが難しいのです。
大人の監視の目が必要でしょうが、それが行きすぎてもいけないし…。

子どもと接する大人、特に親が、どれだけ子どもの心の変化に敏感になれるのか、それが大事なような気がします。
今心配なのは、いじめられている子ばかりに、スポットが当たっていますが、いじめている子の心の方はどうなっているのかということです。なにやら深いものがありそうな…。

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