冲方丁 『天地明察』2010/06/23

冲方丁は「うぶかたとう」と読みます。1977年生まれの作家です。

 
囲碁にも、暦にも、算術にも興味のない私が、たまたま読む本がなかったので、図書館の司書さんに何かおもしろい本がないかと聞いたら勧められたのが、この本です。
おもしろかったです。

時は江戸時代。
主人公は渋川春海という、碁打ち衆四家(安井、本因坊、林、井上)の安井家に生まれた男。
碁所のもともとの起源は豊臣秀吉で、徳川家康が碁好きだったからか、江戸時代には碁所なんていう役職があったようです。将棋役より格上です。
碁所の仕事として、本の中では将軍様の前で”御城碁”を打ったり、大名などに碁を教えたり、彼らの碁の相手をしたりしています。
碁を打ってお給料をもらえたんですね。

渋川春海はいくつかの名前があり、父親の名をついで安井算哲という名もあったのですが、安井家を養子の算知が継いでいたので、保井姓を名のっていました。
彼は碁だけをやることに飽き、数学・歴法や天文歴学、神道などを学び、算術に熱中していました。
22歳の時に北極星の観測のため日本全国を歩く観測隊の一員に任じられます。
このことが彼の人生の転機になります。
28歳の時に、将軍家綱の後見人保科正之に改暦の儀を申し渡されます。
当時、唐からもたらされた宣明暦を採用していました。
ところが、この暦では日蝕などがことごとくずれていたのです。
そのため新しい暦を作る必要があったのです。
春海は中国の授時暦に基づき予報を出しますが、外れてしまいます。
何年かの研究の後、中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり、そのため「地方時」(今日でいう時差)や近日点の異動が発生してしまうことに気づきました。
そして、作りあげたのが、「大和暦」です。
幕府から改暦を言い出すととまずいということで、朝廷に根回しをし改暦を言わせたり、いろいろと朝廷に気を使わなければなかないことがあったらしく、昔も今も何かをやろうとすると大変なんですね。
結局春海は4回も改暦の請願をし、やっと4回目(1684年10月29日)にして大和暦採用の詔が出されます。彼は45歳になっていました。
春海は3回も改暦請願が却下されても自暴自棄になることなく、碁を指すように次の一手を考えて行動していきました。
春海はこの功により天文方に命じられ、碁役は辞しました。

すごい人がいたんですねぇ。
春海は妻にも恵まれ、後妻のえんとは死ぬ時まで一緒だったと書いてありますが、できすぎですね。