「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」を観る2021/06/02

1960年代は戦後日本の歴史のなかで社会運動がもっとも盛んだった時期です。
60年代後半には、ベトナム戦争や日米安保条約改定に反対する運動が沸き起こるなか、全国の大学キャンパスを舞台に学園闘争が発生していました。
学生達は学生の権利の拡大や学費値上げ反対、大学施設の管理権などの大学内の問題を取り上げ闘っていました。(東大闘争についてはこちらをご覧ください)
特に1968年はパリの五月革命やプラハの春、アメリカの公民権運動、王子野戦病院反対闘争などが起こり、「政治の季節」と言われていたそうです。

三島由起夫は1925年生まれ。学習院高等科から東大法学部へ進み、大蔵省に入省しますが、次の年に退職し、職業作家になります。
行動する作家で、文武両道、剣道や筋トレを行い、肉体を鍛えていました。
60年代に政治的発言を始め、政治色の強いものを書くようになります。
自衛隊体験入隊を繰り返し、1968年に楯の会を結成します。
1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室にて割腹自殺。45歳でした。


1969年5月13日、東大駒場キャンパス900番教室に1000人を超える学生が集まりました。
東大全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会主催による「東大焚祭」の討論会に参加するために三島由紀夫が現れます。

三島と全共闘は右翼対左翼、保守対変革というように、全く交わらないように見えます。
学生たちはポスターで三島を近代ゴリラと揶揄したり、三島を殴りに討論会に来たとか言っています。
三島は身近を警護する楯の会の若者は連れてこず、さらしを巻いたお腹に短剣を入れて討論に臨んだそうです。
心配した楯の会の若者たちは三島に報せず、三島を守るために討論会に紛れていたそうです。

この討論会をTBSが撮っていたので、50年経った今、こうしてその時の様子を垣間見ることができます。
討論会のすべてがそのまま観られるのではありません。
以下のように4つの章に分れています。

第一章:七人の敵あり 三島の決意表明
第二章:対決
第三章:三島と天皇
最終章:熱情

合間に当時の全共闘の人たちや楯の会の人たち、作家の瀬戸内寂聴や平野啓一郎などのインタビューがおりこまれ編集されています。

かつての楯の会の人によると、三島は青年が嫌いだと言っていたそうです。
彼は青年の物の考え方、すなわち世の中の流行に流れがちで、首から上でしか考えず地に足がついていない、そんな青年が嫌いだったのだと言います。
そういうことを聞くと、ひょっとすると三島は全共闘の若者たちにシンパシーを感じ、期待していたので、この討論会に参加することにしたのではないかと思えます。
三島ほどのスーパースターになると学生を馬鹿にしたり、高圧的になったり、ぞんざいに扱ったりしてもおかしくはありません。
しかし三島は最初から最後まで彼らを対等に扱い、礼儀正しく、時にはユーモラスに、丁寧な語り口を続けています。
どんなに学生が失礼な言動を取ろうが、言葉を荒げることなく接しています。
三島は学生たちと話すことが楽しくてたまらないようです。
討論会後に「ゆかいな体験だった」と言っていたそうです。


学生の一人は娘を抱いて参加していました。
彼は芥正彦で、この頃から演劇をやる超前衛的な表現者として認められていたそうです。
「演劇を変革することは人間の存在を変革すること」
「革命とは最高級の大いなる詩。その超越性をどう一般理論にし、現実化するかというと、まずは演劇からだ」
「芸術家が変革されないところで世の中が変革されない」
など色々と持論を述べています。
時には三島を揶揄したりしますが、対決してやるぞという気負いが見られず、言葉で遊んでいるようにも見えます。
彼が三島と一緒に煙草を吸うところが微笑ましいです、笑。

この頃の学生だったら普通に会話に出るのでしょうが、私のようなノンポリ学生だったものには関係ない言葉が次々と出てきます。
無限定無前提の暴力否定、芸術至上主義、反知性主義対知性主義、他者とは、自然対人間、解放区、「天皇」etc.
あ、ノンポリとは、「政治運動に関心がないこと、あるいは関心がない人」のことです。元々1960年から70年代には「日本の学生運動に参加しなかった学生」のことをこう言ったそうです。(『ウィキペディア』による)


三島は学生たちに「君たちの熱情は信じる」という言葉を残して去って行きます。
彼は「社会を変えていくのは言葉である」ことを信じていたのでしょうね。
1960年代は言葉に力があった時代だったのかもしれません。
この討論会の1年半後に三島は割腹自殺をしています。
実はこの討論会で、この最期を思わせることを言っています。
三島も全共闘も、敗北で終わりましたが、同じ敗北したものとしての違いは、命を賭けるまでの「熱情」があったかどうかのように思えます。

映画の最後に、全共闘の彼らは、彼らの青春をどう総括しているのかを聞いています。これは私も聞きたかったことです。当時、学園紛争をやっていた大部分の人たちが、それを忘れたように体制側に着いたのですもの。(今の70代)
三人の元全共闘が答えています。

木村修(討論会の司会・元地方公務員):
「敗北とは思っていない。一般的な社会風潮に拡散したと思っている」
「自分自身で自分の人生何やってんだろうということもありましたし…。」

橋爪大三郎(東工大学名誉教授):
運動は必ず終わる。どんなやり方でもかまわないから、何があったかは覚えていなければならない。死んじゃうと覚えていられないでしょ。全共闘は自殺しなかった。そこが終わりじゃないから。負けることが必然であれば、負けた後、どうなるかってことを考えきらなければならない。見方によっては私はそれをやっている。(抜粋)

芥正彦(劇団ホモフィクタス主宰者):
「知らないよ、そんなこと。君たちの国ではそういう風にしたんだろ。おれの国ではそうなってないもの。証拠がないだろ。君たちの国におれがいないもの」

木村さんの言葉が一番誠実そう。
大学教授の方は体制側に行っちゃったからねぇ。
この映画が出来るかどうかは、芥が出演するかどうかにかかっていたそうですが、なるほどと思える濃いキャラです。
それにしてもなんか権力の権化みたいになっていますねぇwww。
これで総括できてるかどうかは疑問ですけど。

ここからはバカな女の世迷い言として読むか、飛ばして下さい。
なんで瀬戸内寂聴が出てくるんだと思っていましたが、瀬戸内さんの言うことが映画を観てわかりました。ひょっとして瀬戸内さん、三島に惚れていましたね。
この映画を観るまで、私は三島を作家として認めていても、割腹自殺したことで何やら偏狂的な危ない人だと思っていましたが、見方が変りました。
三島由紀夫はとっても優しい魅力的なカリスマ性溢れる人です。
生きて欲しかったです。

制服フェチではないのですが、今回映画で楯の会の制服を見て、なかなか素敵だと思いました。
ド・ゴール大統領の軍服を作ったことがあるという名テーラー、五十嵐九十九さんがデザインしたと言われていますが、実は彼の師匠のポール・ボークレーのデザインだったとどこかに書いてありましたが。
あの制服は鍛えた身体にしか合いませんね。
三島の美意識に感心しました。

この時代に私は間に合わなかった世代ですので、本や映像でしか知ることができませんが、何かに熱情を注げたということで、羨ましく思うこともあります。
ひょっとして今よりも希望の持てる時代だったのかもしれませんね。
討論に関しては全共闘のごく一部の人としかしていなくて物足りなかったです。
全共闘とは何ぞやが全くわかりませんでしたが、三島がとてつもなく魅力的に見える、生きた映像が見られたということで、満足しました。
この映画では三島が学生たちの上をいっているように見えましたが、実際はどうだったのでしょうね。
当時の人たちが観たら、これは全共闘ではないと言って怒るかもしれませんね。
そもそもこれが全共闘だというものがあったのでしょうか?

興味を持った方は是非ご覧下さい。
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