『歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎』展@サントリー美術館 ― 2010/12/05

入り口付近で老夫婦の旦那様が、「失敗したなぁ、ゆっくり見れなかった」と言っているのが聞こえました。
エ?と思って中に入ると、結構人がいます。
土曜日ということもありますが、ゴッホ展じゃないし、浮世絵だし、5時過ぎなら人が来ていないだろうなどと思ったのは、浅はかでした。
こういう日本美術の展覧会を見に行くと、一人はいる、解説おじいさん、いました。
解説が長いんですよ。こちらはなかなか見られなくて、諦めて次の展示に行きます。
蔦屋重三郎は1750年に吉原で生まれました。
もしや、花魁の子?などと思って調べてみると、お父さんが吉原の勤め人だったと書いてあります。
幼いころから吉原に育ち、何を思い暮らしたのでしょうか。
後に吉原の茶屋に養子に入ったようで、それで屋号の「蔦屋」を名乗ったようです。
仕事は最初は貸本業をやっていたようです。 (「江戸出版界の敏腕プロデューサー 蔦屋重三郎」より。詳しくはこの記事を読んでください)
1773年に彼は吉原大門の前で書店を開き、「吉原細見」を売り始めました。
この「吉原細見」は写楽ミステリーに出てきて興味があったので、実物が見られて、これだけで満足。
「吉原細見」とは、ようするに吉原のパンフレットです。
内容は廓内の略地図、妓楼および遊女の名寄、揚げ代金、茶屋および船宿などが書いてあるようです。

初めて吉原に来た男性はこれを買ってどこに行こうかと考えていたんですねぇ。
今ではいくらぐらいなんでしょう。
この「吉原細見」以外にも遊女の紹介本や遊女の一日を描いた浮世絵など興味深いものがありました。
ようするに彼は吉原の宣伝部長だったんですね。

上の絵は「青楼十二時 続 午の刻」です。
午の刻はちょうどお昼の十二時ごろ。遊女が昼見世のために化粧を始めた様子ですかね。
蔦屋重三郎は吉原で経営基盤と人脈を作り、力をつけていったようです。
吉原は「江戸の知識人たちが遊ぶサロン」だったそう。
他にも美人画や役者絵、相撲取りの絵などがあって、当時の風俗や風習がわかり興味深い展覧会でした。
ちなみに、相棒お気に入りの浮世絵は、「江戸高名美人 木挽町新やしき 小伊瀬屋おちゑ」(喜多川歌麿画)と「柏戸 錦木」(勝川春英画)だそうです。


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